エッセイ的随筆

枕草子から、

「心ときめきするもの、雀の子飼ひ。乳児遊ばする所の前渡る。よき薫き物たきて、一人臥したる…」

「心がドキドキするもの」というテーマで始めて、「雀のヒナを育てること」「赤ちゃんの前を横切ること」までは一般的な類推だが、次に「よいお香をたいて一人、横になる」という自身の秘めやかな愉しみを連ねる、清少納言の感性は千年の時を経てもなお、独創的で鮮やかだと思う。

そんな枕草子は日本で最古の「随筆」だとされている。随筆とは「気のむくまま筆に任せて見聞・体験・感想などを書きしるした文章。漫筆。随想。エッセー」だと手元の辞典には書いてあった。

僕は随筆を書くのも読むのも好きだけど、それを横文字にスライドさせてエッセイと呼ぶのには違和感がある。日本語のエッセイの語源になったのはモンテーニュの『エセー(Essai)』らしい。彼の『エセー』に限って言えば、随筆と言えなくもないかもしれない。けれど例えば『Essai sur le don』と書けばマルセル・モースの『贈与論』だし、『Essai sur les donneés immédiates de la conscience』と書けばベルクソンの『意識に直接与えられたものについての試論』となります。

フランス語の辞典で「essai」と引くと最初に出てくる意味が「試験,テスト」「試み,企て」なので、日本語の「随筆」に対してエッセイの方は“試す”という意味合いが強い。(もちろん仏語辞典にはモンテーニュが使った意味での「随筆」という意味も載っている)

僕の中で随筆は『徒然草』のように漫然と思うことを垂れ流したものであるのに対して、エッセイはもう少し真剣な顔をして書かれたものという感じがする。もちろんどちらの方がよい、悪いという意味ではないけど。

そう考えると、へそ曲がりな僕はわざと「枕草子はエッセイである」と言いたくなる。近年の研究によれば、枕草子のある程度の部分が虚構的であるということが指摘されている。まるで日記のような箇所も実は後になって、回想的に書かれたという説もある。

それが正しいとすると、枕草子は随筆という表面的には弛緩したような文を書きつつ、腹の底では野心に満ちた企てだったのかもしれない。小森潔さんの『枕草子 逸脱のまなざし』という研究書では、漢籍(漢文)に対して仮名文字を使い、それまで権威的だった漢籍(男性)中心主義を崩す効果があったのではないかと書かれています。

だからといって清少納言が男性世界を打ち壊すべく立ち上がったアクティビストのように筆を奮っていたとは思えない。あくまで楽しんでいたように僕には感じられる。楽しんでいたから自然と挑戦的になる「エッセイ的随筆」。

僕はこれから(いつまで続くかわからないけど)戯れつつ、真剣な挑戦としての文章を書いていこうと思います。

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