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占うということの意義〜主観と客観・主体と対象について

昨今の #占い師 は自身が占う立場であるがためか、なんでもかんでも「 占う 」ことで問題解決につなげたいと思いがちですが、「占うという行為」についてもっと重みを持たせてもいいんじゃないかと感じています.この「重み」とは、やたらめったら占うのではなくどういった時占うのかの、機を得るタイミングについて自分なりのルールを作るという意味と、せっかく占って得られた答えなら、その意義を最大限貴重視するということ、「 #占い 」と向き合う上での、占う前と占って得たあとの態度について軽薄であってはならないという意味です.

当然ながら、占いに自分の #運命 を丸投げしてもまったく相手にしてくれません.
そんなふうにして身を委ねてまな板の鯉のようになってみせても、事態は悪化するばかりでしょう.言い古された言葉ですが「人事を尽くして天命を待つ」という、前提となる人事が果たされなければ結果はまったくもってついて来ないからです.あくまで、天の声を聞く前に自分で懸命に取り組んだ努力がなくては天はしっかり反応してくれないということかもしれません.
特に「至誠通天」という言葉には誠を尽くせば天に通じる、反対に誠を尽くさねば天に通じないということをコントラストに表現しています.

ここに今日のテーマがあります.

なにごとも取り組む以上、まず自分自身が一所懸命になることは極めて重要で、主体的に働きかけていき最大限エネルギーを投入するのは当然の理です.これは一途さに裏打ちされていなければなりませんから「主観的」状態です.しかしふと、一旦立ち止まり、「あれっ」と自分をうすめてあたかも突き放すが如く全体の状況の中で自分がどういうポジションに立っているのかを自分以外の他の視点から見直しを図る、こうした作用は精神分析では「 #超自我 」なんて呼んでますが、この「超自我」の目線をたしかめるのが「天の声 を聞く」という作業で、占いなんだと考えます.このとき、懸命に自分が投入している状態とはまるで異なる立場、すなわち自分を対象化する作業であるといえるわけで、これを「天を仰ぎ敬い、占って得たものを天のものとして扱う」という、まさに自分自身が対象に立って自分自身の視点を放棄するという、謙虚な姿勢から得られる知見を最大限貴重視するということ、これが「占う」本質なのではないかと思うのです.

物質文明謳歌の時代の絶頂期の中で暗黙の了解事項としての常識が解体され過去のものとなり、それにかわって独自の主張をどれだけ強くもっているかを問題にした個人主義の旺盛からいかに主流思想を形成するかの先を争っている過渡期の現代、人々は主体意識を鼓舞しながらもおぼろげな共同体のつながりを失ってしまった、分散化という代償を払いながら、これまでの伝統文化は解体と同時に進化を遂げようと産みの苦しみを味わっています.
その意志が、 #ニーチェ の言うように強いもので永劫回帰する運命すべてを受け入れる愛を実践する「 #超人 」としての主体性を発揮するほど成熟した魂となり、たくましく生きることができるならそれに越したことはないのですが、意外に中途半端でもろく崩れる弱さや不安から占いを求めて、かつ中途半端に主体性を主張するものだから余計こんがらがってかえって穴から抜け出せなくなる.こうなるとニーチェが予言しているように、もう自分ですら自分を理解できない、そのうえだれからも相手にされないなんていう独我論にもならない「 #ニヒリズム 」の罠へと陥ります.

あらためて「占う」ということが何なのか?再度問い直して自分にとっての占いとは何かを定義づけし直して納得の占い師と出会えていかれると有意義なのかな、とそんな風に思うのです.

精一杯自分でとことん限界まで挑戦して、そしてやりきった中で問う質問は、天はかならず道を開いてくれる、その筋道をしめしてくださるであろうと思っています.


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