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ビリラガーマン

映画ビリギャルを見て、号泣してしまう。

かくゆう私も、高校3年の6月まで、330人くらいの学年の生徒の中で300番台の学力であった。

ラグビーに捧げた高校生活。11番右ウイング。授業中に早弁し、昼休みに学食でラーメンを食べてすぐに体育館に行きベンチプレス。授業中に睡眠。夕方からの練習。練習後に下宿している先輩の部屋にたむろする。家に帰り、部屋で酒を飲みタバコを吸う。週刊プレイボーイが愛読書。そんな毎日であった。

さて、3年生になり、県大会の最後の試合ベスト8で私のラグビー生活はピリオドを打った。6月の事。結局花園にはかすりもしなかった。明治の吉田のようにはなれない、という、人生で何度目かの挫折感を味わった時でもある。

さて、これからの自分の人生どうしようか。そんな状況だった。

親父が小さいころからの私の様子を見ていたからだろうか、おまえは建築なんかが向いてるんじゃないか?そんな言葉を素直に受け取る。確かに、スケッチ大会で金賞などさらっともらっていたからだ。

さほど裕福ではなかったから、国公立の大学、浪人などもってのほか。そんな状況を突き付けられた。地元の大分大学に建設工学科がある。これ一本の選択肢となった。だめなら自衛隊に志願しよう。そう決めていた。

さて、それからの猛勉強が始まった。共通一次まで残り6か月。

当然ながら、300番台をふらついていた私。国公立大学など夢のまた夢。塾に行くなどの経済的な余裕もない。

私の唯一の幸いは、1年、2年の時に、鬼のような数学教師が担任であった事。数学の授業だけは、必死に食らいついていた。ビンタされて鼻血を流したり、なんども殴られながら。数学の点数が平均以上あった事が救いになったのだと思う。

そして、奇跡的に、大分大学工学部の建設工学科に合格を決めた。しかし、大分大学の偏差値は驚くほど低かったのだから、自慢話にもならないのだが。

学校の先生には、逆転満塁ホームランだなと、たいそう喜んでもらった。

あの頃の記憶がよみがえる。なんともいえない受験という体験。

そして、18歳になりたての時に「俺、建築の世界に行く」と決めてから、50歳の今日までの32年間、一度もブレずに建築のメインストリームにしがみつくように生きてこれた事が奇跡のように思う。

親父が何気なく言った「信二は建築なんかいいんじゃないか」その偶然の一言がきっかけである。

なぜ、そんな何気ない一言を素直に受け入れたのか。不思議でならない。



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