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直観を審神者(さにわ)する

直観とか心の声というものに懐疑心が拭い去れない。

直観と妄想の区別はつきにくいからだ。

いままでの50年間、直観を働かせて生きてきたように思う。

よい方向にいったものもあれば、わるい方向に行ったものもある。

すべては経験と受け止めているのだが、よくよく思い返してみれば、あのとき、直観と思って選択してしまったのは、直観という思い込みの妄想ではなかったか。そのように感じる事もある。

日本には古来から審神者を行うポジションの人がいた。神の御宣託を受ける際に、処女である巫女が依り代となる。そこに神が降臨して、巫女の口を通してメッセージがおりてくるという。問題はそこからである。審神者と呼ばれる人が、降りてきた存在の正邪をチェックするという。様々な知識を駆使して対話し、質問し、ああ、いよいよ、この存在は本物だな、とジャッジするらしい。

そうやってはじめて、正統な存在からのメッセージである、としたのだとか。

であるから、チャネリングする能力のある人よりも、審神者をできる人の存在のほうが重要という事である。

自分に降りてきた直観を自分で審神者する。そのような客観性が欲しいと思うのだ。

しかし、それって本当に難しい事だと思う。並大抵の事ではないなと感じるのだ。

つまり、自分の波動を常に清らかにしていないと判断を間違ってしまう。

なかなか難しい生き方だとおもうが、どうにかして、その域に達したい。

そんな風に思う今日この頃である。

ひるがえって、建築家という仕事に思いをはせる。

直観からわいた空間イメージは、そのまま現実化はしない。クライアント要望があり、法規があり、予算があり、性能があり、施工性があり。様々な知識を総動員して、直観イメージを審神者していたのではないか。そのように思い当たる。

建築家というのはある種の審神者ではないか。そのように思い当たるのだ。

なかなか難しくもやりがいのある人生を選択したのだなと、ようやく腑に落ちた。


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