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「分人」という人間観

「分人」という概念を知った。



【個人】

今までは、「個人」としての自分(自己)を見ていた。
とても窮屈に感じた。
「分人」という考え方を知ってからは、「分人」として「自分」という存在を肯定して生きている。

私たちは、日常生活の中で、さまざまな自分を持って生きている。
これは、多重人格であるというのではない。
私たちは、家族といるときの自分、友人といるときの自分、恋人といるときの自分とでは、相手に見せている顔が違う。
これは当たり前の話だ。

しかし、状況や相手によって変化する「自分」というイメージが、個性的に、主体的に生きる自分という固定観念と矛盾するためか、私たちは、「本当の自分」というものを探したくなる。

「本当の自分」が何なのか分からないことに思い悩み、苦しむ。
実のところ、私自身がずっとそうだった。

このように考えるのは、「個人」という枠組みで、自己を見ているからであろう。

私たちは、「個人」を疑うことなく信じてきた。

「個人」(individual)とは、一般的に明治になって日本に広まった概念である。「個人」(individual)とは、「分ける」という意味の「dividual」(分人)に否定の接頭辞inがくっついた単語で、語源のラテン語では「分けられない」という意味だった。

それがどうして、一人の人間を指す「個人」という意味に変化したのか?
一説によると、にそれは、キリスト教という一神教の伝統だった。

神が一者であるからこそ、それと向かい合う人間も、唯一の〈本当の自分〉でなければならなかった。
神にはこういう自分で接してるけど、教会を出たら別の自分、偽りの自分、神に見せていない自分ということはあり得なかった。
だから、人間は「個人」という考え方である。

もう一つは論理学である。
社会の中に大勢の人間がいる。
それをどんどん細かくグループに分けていって、最後の最後に残った一人の人間は、それ以上分けることは出来ない。
社会の中のそれ以上、分けられない最小単位こそが「個人」である。

こうした人間観は、非常に強い観念としてある。
私たちは、本音と建前を使い分けるのが習慣であるにも関わらず、オモテ・ウラのある人間や八方美人の人間を嫌い、一貫した人やありのままの人を好む傾向がないだろうか?

しかし、現実は、どうだろうか?
私には、一貫した個人の生き方は、窮屈な生き方に思えた。
少なくとも自分は、家族といるときの自分、友人といるときの自分、恋人といるときの自分とでは、相手に見せている顔が違う。

社会において、「ありのままの自分」というものはいない。
唯一無二の「本当の自分」などいない。

人は、状況や相手によって、自分を変えていると考える方が自然である。

そのような考えに、「分人」という考え方は、ある答えを示してくれた。


【分人】

分人とは、対人関係ごとの様々な自分のことである。

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人は、複数の他者とのネットワークの中で生きている。
そこに、「本当の自分」という中心的な存在はいない。
私という人間は、対人関係ごとのいくつからの分人によって、成り立っている。
そして、その人の個性とは、「複数の分人の構成比率」によって決まる。



【人によって態度を変えるのは、悪いことなのか?】

私は、人によって態度を変えるのは、悪いことだと思わない。

心理学では、「自己呈示」という概念がある。

自己呈示は、相手によって見せる自分を変えることである。
自己呈示は、私たちが生きていく上で、必要なスキルである。
誰もが自己呈示をしながら生きている。


【分人主義で’愛’を考える】

愛というのは、恋愛だけに限らない。
親子愛、兄弟愛、師弟愛など、様々な愛のかたちが存在する。

私たちは、愛する人との関係を心地よく感じる。
その人に対して感謝し、その人と一緒にいることで、人生が楽しくなる。

この「愛」というものは、分人主義的な考え方をすれば、

愛とは「その人といるときの自分の分人が好き」という状態である。

愛というと大げさに聞こえるかもしれないので、言い方を変えると、
人が一緒にいる他者を選ぶ条件として、その人といるときの自分(の分人)が好きか嫌いかということが影響していると思う。

その人といるときの自分が好きだから、この人と一緒にいたいと思い、その人を愛するのではないだろうか?

「分人」という概念を知って、人間関係は、そうやって築かれていくものだと思った。



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