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ジュラシック・ワールド:ドミニオンはなぜシリーズ完結作なのか?

 なぜ今作がジュラシックパークから続く恐竜映画の完結作たりえるのか。その理由は本作の主軸が恐竜の相対化にあることに由来すると考える。

 まず冒頭のオーウェンがカウボーイのごとくパラサウロロフスを追い立てるシーン。これはパラサウロロフスを牛に見立てることで恐竜を牛と同列化している。続くシーンでも恐竜は人を食らうモンスターではなく、人の生活圏に迷い込んでしまった鹿のような、あるいは車道を占拠して渋滞を起こす象のような、現実の野生動物と重ねた描写がなされる。

 そして極めつけはイナゴである。前作ラストで世界中に恐竜が解き放たれるという荒唐無稽な結末を迎えさぞかし今作は凄惨なディザスタームービーになるのかと思いきやそんなことはなく、むしろ巨大イナゴの大量発生という現実的な危機の方がディザスタームービー的な描写がなされ、巨大イナゴの影に潜む陰謀が物語の主軸となる。恐竜よりもイナゴの方がよっぽど脅威であると言うことで、これも恐竜の相対化と言えよう。

 本作の姿勢は恐竜の神格化をも否定する。「ジュラシックパーク3でスピノに敗北したのは別個体で、初代ティラノはいまだ健在」ということにしてまでTレックスの格を保ってきた本シリーズだが、今作はそんな小細工なしで正真正銘あのティラノがギガノトと戦い敗北する。しかも壮絶な嚙み合いの末に死ぬのではなく、尻尾を巻いて情けなく遁走する有り様だ。リベンジ戦となるラストバトルもティラノが強さを見せつけ汚名返上、と言ったものではない。インドミナスを立てつつティラノの格も落とさぬよう慎重に描写されたジュラシックワールド第1作のラストバトルとはえらい違いだ。インドミナス戦ではブルーと共闘しつつも、ティラノが主役でブルーはサイドキックという扱いだった。ティラノがインドミナスとがっぷり組み合い、ブルーはサポートに徹していた。一方で今作はテリジノというサイズ感的にティラノと同格の存在と共闘する。1対1で勝てないので2対1、しかも華々しい勝利ではなくうっかり勝っちゃったという感じでティラノの汚名返上と言った感はない。なんならテリジノのほうがオイシイ活躍してるという印象まである。

 このように本作は神格化されてきたティラノを徹底的に普通の存在に戻す試みがなされた。無敵のヒーローではなく、時には情けなく負けもする普通の動物に。そしてそれは同時にティラノ以外の恐竜が輝く余地を生み出した。ギガノトサウルスは第1作のティラノを彷彿とさせる描写で主人公達に襲いかかり、あまつさえ第1作ラストの咆哮を、当のティラノを踏みつけながらパロディするという傍若無人っぷりだ。それはまるでティラノ以外の恐竜だって活躍したいんだと言わんばかりだ。恐竜が登場する数多の作品はどれも示し合わせたようにティラノやトリケラと言った有名恐竜ばかりを取り上げてきた。だからこそ貴重な出番を与えられたギガノトは徹底的にティラノのお株を奪う。ティラノが不当に出番を独占してきたことへの恨みを晴らすかのごとく。マイナー恐竜の逆襲だ。

 今回ギガノトが抜擢されたのはその類稀なる体格ゆえで、本作ではその巨体を存分に活かして暴れ回る。監視塔の壁をぶち破って主人公一向に襲い掛かるシーンなどもはや巨大怪獣の振舞いである。燃えるイナゴを口に投げ込まれて火を吹く場面に至っては、そのまんま火を噴く大怪獣のイメージが重ね合わされている。ジュラシックパーク3の冒頭でジョンハモンドが作ったのはテーマパークの怪獣であって本物の恐竜ではないとグラント博士が語ったように、制作陣には恐竜を誇張してモンスターにしてしまっているという自覚があったのだろう。映画第1作についての批判で、実態からかけ離れているとよく槍玉に挙げられるディロフォサウルスも再登場し、開き直ったかのように相変わらず襟巻を広げ毒液を吐く。このシーンは映画第1作での出番のパロディになっていて、これも恐竜のモンスター化を皮肉る演出と言えるだろう。

 こうして本作は恐竜を普通の動物として相対化し、神格化を否定し、モンスター化を皮肉ることで、恐竜を過剰に持ち上げ、囃し立て、飾り付けてきた歴史にピリオドを打った。よく恐竜と混同されるが生息した時代からして全く恐竜とは異なるディメトロドンを「恐竜以外の古生物にも目を向けて」と言わんばかりに登場させるというオマケまで付けて。これは「映画スターという重荷を、恐竜から降ろします」という宣言であり、これをもってジュラシックパークという映画を終わらせたということなのだ。

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