感情の置き場

宗教とは、とよく考える。
というのもそれは、わたしが宗教二世(厳密に言えば三世?)として育ったからである。

宗教に生きる母と、そういったことには無関心で屁理屈で割と不真面目な父のもとに生まれたわたしは、母に言われるがまま宗教活動をしていた。

悪くは無かった、ように思う。目が、覚めるまでは。

集まりに参加している大人たちは、おばあちゃんおじいちゃん世代が多かった為に、小さなわたしを孫のように可愛がってくれた。宣教活動に参加すれば、「偉いね」と褒めてくれ、お菓子や自分の娘に着せていた服なんかをよくくれた。(何十年も昔のものなのでデザインはわたしの好みとはかけ離れていたが)

けれど、今思えばその優しさは希少な若者をこの教えから逃すまいとする策略だったのかと疑心してしまう。

今振り返っても、良い人たちであったことに間違いはない。教えも、悪くはなかった。愛についてよく教えられていた。他人を愛しなさい、思いやりも持ちなさい、人を許しなさい。そういった、人として大切なことをたくさん、たくさん教わった。それは今でも、わたしの糧になっている。

子どもなんて、親の言う事が絶対だ。いつだって親が正しい。だからわたしは、母を信じて、自分から友達や先生に、布教のようなこともした。それは、教えを信じない人は神様に滅ぼされてしまうと常日頃教わっていたからだ。大切な人たちが、神様に滅ぼされる。それもとっても恐ろしい方法で。裁きが始まってしまえば、助けを乞うてももう遅い。そんな風になって欲しくなかった。

その一方で、納得出来ない部分があまりにも多く、恥ずかしい思いをしてまでどうして周りの友達と違うことをしなきゃいけないのだろうと何度も感じた。

少しくらいならいいじゃないか。後で神様にお祈りして「ごめんなさい」と謝ればいいじゃないか。そう思うようにもなった。

学校行事にまともに参加できない。誕生日を祝えない、祝ってもらえない、クリスマスやお正月など1年間のイベントも無い。その上、放課後に友だちと遊ぶことすら許されない。

まだ未熟な子どもに、どうしてそこまでさせるのだろうかと、今では思う。

だけどその時は、それが正しいことだと信じていた。どんなに辛くても、苦しくても、将来いい思いをできるのだから。

しかしそれも長くは続かない。孫を見るような目でわたしを見守ってくれていた信者たちも、わたしが成長するにつれて、徐々に厳しくなっていった。あからさまに態度を変える訳ではないが、今までとは明らかに違う、“見えない圧”がわたしを苦しめた。


正式な信者になる為には三つのステップがある。そのステップは、何歳になったらというように定められている訳ではないが、宗教二世として育った人たちは大抵同じだった。

わたしより前の世代は、たくさん子どもたちがいて、親同士が競う様に自分の子どもをけしかけたそうだ。⚪︎⚪︎ちゃんが受けたのだから、あなたも早く受けなさいという風に。小学生のうちに一ステップ、次は中学生、そして高校生で正式な信者に。つまり、ステップを踏むのが遅ければ遅いほど親の教育を疑われる。

子どもの意思なんて、まるでガン無視だ。母親も、わたしの見えないところで圧をかけられたのだろうか。もう条件は満たしているから、早くしなさいとわたしをけしかけた。

わたしは泣く泣くそれに応じ、二ステップまではいった。でも、次で正式な信者になる、というところでわたしは躊躇った。

わたしはとても大人しく、自分から人に話しかける様なことができない子どもだった。今思えば、あれは場面緘黙だったのではないかと思っている。それくらい異常だった。家ではとてもおしゃべりなのに、あの場ではまるで話せなかった。何かを聞かれても自分では答えることができなかった。どうしても発言しなければいけない場面では大量の手汗をかき、時には涙を流しながら発言をした。

大人しく、でもいつもにこにことしていて、親の言いなりになっているわたしに、周りは相当な期待を抱いていたに違いない。

しかもその地域の信者たちの中に、子どもはわたし含め二人しかいなかった。もう一人は年下の男の子だったが、彼は誰の目から見ても不真面目で、けれどそんなところが子どもらしいと可愛がられていた。彼は家庭環境がかなり特殊で祖母と暮らしていたため、皆大目に見ていたのだろうと思う。いわゆる、親に捨てられた可哀想な子だった。

だから、次に若い信者が生まれるとしたらそれはわたしであることは明白で、あともう一歩というところで、皆はわたしに追い打ちをかけるように、自分が信者になったきっかけやこの教えが真理だと確信した出来事などを話し始めたりもした。それは“励まし”という名の、静かな圧だった。

しかしわたしは、わたしの気持ちは揺るがなかった。子どもながらに、これは自分の人生を左右する大きな決断だと感じていたので、自分が本当に心から納得しないと信者にはならない。そう思っていた。

わたしは父親に似て、変な頑固さがある。それが良いところでもあり悪いところでもあるのだが、わたしは、その時のわたしの決意を今でも正しいと感じている。

母や周りに言われて、はいわかりましたと決断していい問題ではない。


だけど、ほんとうは、ほんとうに、苦しかった。何度も泣いた。信じている母にも圧をかけられ、周りの大人たちにも、たくさん圧をかけられた。気付いていないとでも思っていただろうか。けれど、大人が思っているほど子どもは馬鹿ではない。寧ろ子供の方がずっとずっと洞察力が鋭い。

ああつまり、早く信者になれと。もういい歳なんだからそろそろだろうと。そういうことが言いたいのだな、と何度思ったことか。

なかなか踏み切らないわたしに、母も焦っていたように思う。そんな母を見るのも嫌だったし、本意でなくとも、信者になるべきなのかと思ったらもした。けどやはりわたしにはできなかった。

中学生に上がりスマホを持つようになると、今までは知らなかったいろんな世界が見えるようになった。そのことでわたしの小さく狭い世界は大きく変化した。

世界はこんなに広くって、いろんな考えの人がいる。色んな趣味嗜好の人がいる。そして驚きと同時に疑問が生まれる。あれ?もしかして、わたしが見ているものは、ほんの一部?世界の全てを知った様な気でいたけど、そうじゃないの?

そんな小さな綻びが、ぼやけたわたしの視界を晴らしていくと同時に、とある決定打に出会う。それは誰かの言葉でも、何かの音楽でもない、あるひとつのスマホゲームだった。なあんだそんなことか、と思われるかもしれないが、その出会いがわたしの救いとなった。

熱量は変わってしまったが、数年経った今でも追いかけているし、わたしの精神を安定させてくれるような世界一の推しが、いろいろな次元にできた。その存在にわたしの声が届くことは決して無いが、彼に命を救ってもらった人間がここにいることを、残しておきたいと思う。感謝でしかない。

そのコンテンツ(というべきだろうか)には、無論様々なイベントが開催された。そのひとつには、宗教内では禁忌とされていた誕生日があった。

誕生日は祝ってはいけない、なぜなら教典の中で良いものとして記されていないから。そんなふわっとした理由で禁じられていた。わたしはそれにずっと疑問を抱えていた。

何事もなく、とまではいかなくとも無事に歳を重ねられたお祝い。そしてまた一年、健康で幸せに過ごせますように。そう言った願いを込めて過ごす一日の、なにがいけないのだろう。

初めてできた、大好きなキャラの誕生日を、わたしは心から祝いたいと思った。ダメなことだとわかってはいても。

それだけではない。このキャラが好き!このコンテンツが好き!わたしはそんな気持ちを、一人で抱えるには飽き足らず、悩んだ末、Twitterのアカウントを開設した。

それまでは、インターネットから眺めるだけだったけれど。優しい人たちがたくさんいた。わたしを、受け入れてくれるひとたちが。

母にはもちろん、隠していた。インターネットで知らない人とやりとりをするなと言われていたし、宗教の教えとは反するものばかりだったからだ。

SNSのアカウント開設を皮切りに、わたしはどんどん宗教から離れて行く。こうなったらもう、心ここに在らずだ。推しの存在を思い浮かべ、二次創作にも手を出した。講話を聞きながら実は推しの二次小説を書いている、そんなこともあった。

完全に視界が開けきってからは、どうでもよくなっていき、真面目だったわたしが集会を休みがちになり奉仕活動にも身が入っていない状態で参加するようになる。

そうして徐々に徐々に距離を置き、引越しを経たことで環境が大きく変わり、今に至る。

わたしは宗教を否定しない。神様も信じている。
けれどそれは個々の信念であり、それを強要してはならない。家族であってもだ。

わたしはそうおもっている。

宗教という呪縛から離れて数年ほど経つだろうか。未だに宗教のイベントのチラシは投函されるし、宣教活動をしている信者を見るたび、手のひらにジワリと汗が滲む。ふとした瞬間に思い出して、手が震える。かなしくなる。

普通の子どもとして、過ごせなかった。
そのくるしみはきっと、一生わたしを捉えて離さないだろう。進んでいく時間の中で、過去に縋っていても仕方がないだろうというのは承知の上で、わたしはここを感情の置き場とすることにした。



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