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父が残した言葉

親がまさに人生の最期を迎えようとしているとき。「ご家族さん、話しかけてあげてください」と言われて、今までの感謝とか、愛情とか、思い出とか、余すところなく言葉にできる人は、いったいどのくらいいるのだろう。

87歳の父が亡くなる30分前、老人介護施設の父の部屋に到着した私は、結局亡くなるまで「お父さん」としか言えなかったし、50年連れ添った母も「お父さん、智子、来たよ」としか言えなかった。映画のワンシーンみたいに、言葉が溢れ出たらいいのに、と私はどこか他人事のように思った。

若い介護士さんがかけてくれていた昭和歌謡曲のCDがくるくると回っていた。


父が亡くなった後、施設の職員さんたちが代わる代わる最期のお別れに来てくれた。

「僕たちにはとても紳士的な方で、知識も豊富で、英語とか教えてくれたんですよ」「ボクシングをやっていた話とかしてくれました」。死に顔を見て「お父さん、ハンサムやなぁ」と言ってくれた人もいた。

数ヶ月の間、コロナの影響で家族が面会できない間も、父と一緒に過ごしてくれた職員さんたちは、父のことをたくさん言葉にしてくれた。とても嬉しかった反面、「お父さん」しか言えなかった自分が情けなくて仕方なかった。

職員さんたちの話を繋ぐと、おそらく、父の最期の言葉は「ベリーしんどいわ」だった。父も父だ。

母に連れられてきた知的障害がある姉は、父が亡くなったと聞いて最初に口にした言葉は「お父さん、お風呂は?」だった。

みんなめちゃくちゃだ。


亡くなってから、嵐のようにお通夜、お葬式の準備を進めながら、最期に何と言葉をかければよかったのだろう?と私はずっと悶々としていた。

そして、お葬式が終わって、お骨を持って家に帰ったとき、思い出した。父に聞きたいことがあったんだ。


1年前、父が施設に入った後、私は実家に泊まるときは、父の部屋のベッドで眠ることが多かった。そこの壁にはカレンダーの裏に、どこからか引用したらしき「熟年の人に好かれる条件」と書かれたものが貼られていた。

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「エネルギッシュ」「食べ物に好き嫌いがない」「よくしゃべる」…格段深い言葉ではないが、わからなくはない。

そんな中に突如現れる「たこ壷人生」…これは一体何なのだろう。「コンパ」「生きざまサロン」。これもよく分からない。父は何を見て、何を思って、この言葉をわざわざ部屋の壁に貼っていたのだろう。しばらく考えてみたれど分からなくて、今度面会に行ったときに聞いてみよう、と思って忘れていた。

蛸壺が海底でじっと獲物を静かに待ち受けるかのような人生?それともタコの目線で、自ら壷に入っていくような人生?(でもそれでは捕らえられてしまう)。あ、壷のかたちに合わせて姿を変える軟体動物的な生き方ってこと?辞書的には「狭い学問の世界の例え」みたいだけど…好き好んで狭い世界を目指す人ではないだろうし。

答えを聞かないまま、父は死んでしまった。

でも、もしあの最期の瞬間に思い出していたとしても、死にかけている人に、「たこ壷人生、送れた?」なんて高度な問いかけをできるはずがない。


父はとても向上心の高い人で、75歳で小さな会社を畳んでからも、パソコン、コーラス、絵画、彫刻、ピアノ、株…色々なことに励んでいた。身体の自由がきかなくなって、認知症が進んできても、「何を目指して頑張ったらええんやろうなぁ」とずっと言っていた。

そんな父がメモした「たこ壷人生」という言葉。とんだメッセージを残されてしまった。父は家族に多くを語る人ではなかったから、彼が考えていたことの1万分の1も、きっと私は知らない。そんな状態でお別れしてしまった、と思ったけれど、それをこれから何十年もかけて解き明かしていくのも悪くない気がする。

言葉って、放ってすぐに伝わる部分もあるけれど、受け取る側の心情で全然意味合いが違って感じられたり、引っかかる部分が違ってきたりする。10年ぶりに読んだ小説が、全く別物に感じられるのはよくあることだ。私が熟年と呼ばれる年齢になったら、「たこ壷人生」の意味もすんなり分かるようになるのだろうか。

父は、父の残した言葉と共にずっと私のそばにいる。でも…いいこともたくさん言っていたような気がするのに、「たこ壷人生」のインパクトにかき消されちまったよ。


岸田奈美さん、父のことをたくさん考えるきっかけをくれてありがとう。言葉にしよう、何を書こう、と泣きながらたくさん父のことを考える時間は幸せでした。

父が亡くなって3日目の夜に。





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