見出し画像

2021/1/6記事 武士 セカンドキャリア


記事より

・永倉新八は、1839年、松前藩士の長男として江戸で出生
・読み書きには全く興味を示さず、後継ぎとして心配した父親が精神鍛錬のため、8歳で剣術修行に出す
・父親の期待に反して剣術にのめり込み19歳で出奔
・23歳の時、武者修行の旅で出会った近藤勇との機会を経て新選組に参加
・1868年(慶応4/明治元年)、会津戦役を最後に新選組から離脱し、故郷 松前に戻る
・1869年、両親が他界し、松前藩医、杉村松柏の養子に迎え入れられ、娘米子と結婚し杉村姓へ。31歳。
・1875年、養父・松伯が亡くなり家督を相続し、「義衛」と改める。(永倉新八 消失)
・1882年、44歳の時に、松前藩のよしみで樺戸集治監の剣術師範として招聘。以降6年間にわたって剣術を指導
・剣術師範を退職後、東京で道場を開くも、1899年、61才の時、息子夫婦と孫の住む小樽を永住の地と決め移住。北海道大学でも剣術指導
・1913年、75歳の時、「永倉新八」の名で小樽新聞に新選組の回想録を連載
・1915年、77歳で永眠

戦国時代ならまだしも、泰平かつ長子相続(長男・長女)が当たり前の幕末で、長男が腕白すぎるのは、親として相当心配だったはずです。

しかも修行さえるつもりの剣術にのめり込んで出奔とは。。。命があって本当によかったですね。

やはりキャリア形成の要因である「興味」「能力」「価値観」から見ても、永倉新八の新選組参加は運命であり、剣術に関わる仕事をするのも当然の帰結のように思います。

ちなみに新選組は合併と再編を繰り返して組織が拡大したので、役職名が特殊です。
・組なのにトップは局長、組員は隊士
・番付の隊編成なのに隊長は組長
・一時的に参謀や総長というポストができる

などなど、他にもユニークな役職もありますが、隊士の魅力をふくめ興味が尽きません☆


あらためて永倉新八の経歴を整理すると【剣術修行者→新選組隊士→二番隊組長→藩医養子→剣術師範→道場主→作家】という感じでしょうか。
コアになっている「剣術」というスキルと、「新選組、二番隊組長」という経験「信頼」という財産になって、その後の人生を助けてくれたようにも見えます。

明治になって武士という職業・階級が廃止され、多くの武家やその家族がキャリア変更を余儀なくされました。ましてや佐幕派(旧幕臣)ともなれば討幕派(薩長土肥)が活躍する明治では非常に肩身が狭かったでしょう。
そんな失望と痛憤の中でも、亡くなった仲間への自責を抱えながら必死に生き抜いた姿は、私たちを励ましてくれます。

きっと、天国でも近藤たちと合流して剣術三昧に戻ってそうですけどね(笑)



もし宜しければサポートを頂けるとうれしいです☆