コホラの導き

コホラとは、ザトウクジラのこと、英語ではHumpback Whale
わたしのルーツがある平戸の生月島では勇魚(いさな)と昔しよばれていたことは「わたしのルーツ」というnoteで話したと思う、

ハワイ語ではコホラとよばれ、アウマクアの一種であり海の神様の化身として崇められていた時代もある、

https://bonin-ocean.net/humpback-whale

5年ぶりのBonin アイランズ(小笠原父島、母島)の旅では今までにないほどにKohola コホラ、ザトウクジラとの遭遇というよりも交流、交信、といっても過言ではないほどの意識のつながりを感じたのだ、

コロナ渦直前のハワイはマウイ島でマウイの仲間とキヘイからラハイナ、そしてラナイ島まで漕いだとき以来、5年ぶりに、わたしとコハラは心と心がつうじあった、そんな感覚だった、

今回のボニンへの旅は、ホクレアの世界一周のドキュメンタリー映画「Moananuiakea」の上映会と「マーラマホヌア交流会」、と勝手に僕が呼んでる、Boninのオハナと一緒に海を漕ぎながら、ビーチクリーンをしたりマーラマホヌア ” 母なる地球をいたわり愛しむ ” ための話をして、それを行動にうつすという時間を島のオハナと持つこと、それが第一の目的だった、

そして、もう一つのわたしが心に密かにきめていたこと、その目的はボニンという日本で一番太平洋の中心に近く、ハワイ、マウイ島はラハイナに最も近い洋上まで行き、思いでふかく、わたしが大好きな街ラハイナに想いを馳せながら、海に祈りを捧げ、マウイの島民と無惨に破壊されたラハイナのアイナ(大地)に哀悼の念を伝えながら海を漕ぐことだった、 

ヴァアの中の調和を意識しながらオハナと一緒に6人で大海原を漕いで渡るのも心地良くて大好きだけども、
独りで大海、外洋に漕ぎいでる、その感覚はまた違ったものでたまらなく好きだ、生命の源、海とそこに生きる生き物たちのマナを感じながら、自分独りだけの意識でつながり、自然界にどっぷり浸って祈りをささげる、そうするとあっというまに時空を超えて在りし日のマウイ島の西海岸、岸辺の街アーリーアメリカン調のラハイナの町並みとその後ろの精霊がやどる山々が目のまえに現れてくるのだ、

言葉を失うような大惨事のニュースは決して忘れないだろう、
日本時間の8月9日(ハワイ時間の8月8日)はわたしの郷里ナガサキの原爆の日だったので鮮明に憶えている、山火事のあとと言うよりも、わたしにとっては子供のころから毎年夏になると見せられてきた原爆爆心地のような、そんなまさに跡形もないラハイナの焼け落ちた惨状の写真と動画をみて言葉を失った、
それからというものほぼ毎日のように葉山の海で海にでるたびに何度もラハイナを想い、海を漕ぎ続けてきた、
いっこうにハワイ王国の古都の再建のかたちが見えてこない今の状況にずっと心が痛んでいる、

ボニンのオハナたちと6人乗りのヴァアで海に出ているときは、あまり意識しなかったけども、一人乗りのV-1 で海を漕いだ時のその感覚はうまく言葉に表す自信がないけども衝撃的だったので忘れる前にここで記したい、

今回のボニンへの旅の目的は最初に話した通りだったけども、duke個人としての密かな計画は少しでもマウイの近くまで自力で漕いでいき、ラハイナに祈りを捧げながら海を漕ぐこと、何も隔てるものがない近くまで漕いでいき、わたしのラハイナへのアロハの想いを蒼く澄んだ海を通して、空を通してつたえることだった、
そういう秘かな計画もあったので、息子ケニーの商売道具でもあり売り物でもある高価なFai vaa の最新のV-1(タヒチの1人のりカヌー)を父島に持って行ったのだった、
ある程度は予想していたことだったけど、なかなかその計画を実行できるようなタイミングはやってこないのだ、冬のこの季節の小笠原の海は風が吹きほぼ毎日荒れ気味だったのだ、毎日のように島の子供たちやオハナたちと、島陰になるわりと穏やかな扇浦の湾内で海にでることはできたけども、わたしが今回の拠点にしていた扇浦からみると島の反対側で一番遠い沖の海域、ラハイナの方向、母島も目視できる南南東の海域はいつも荒れていた、ボニンのオハナとのマラマホヌアな至福の時間が毎日流れていたので、わたしもほとんどその秘かな計画を諦めかけていた、母島に船で行くときに母島丸の船の上からラハイナに向けて祈りを捧げ続ければいいか思い始めていたと思う、
でも、いつもそうだけど、タイミングは、導きは、突然やってくる、計画しなくてもその”時”は宇宙から与えられるのだ、

母島に移動する日を一日遅らせることになった、別にわたしが計画したわけではないけども、何故か人々の都合や流れとしてそうなった、母島で島の子供たちを集めて海でマラマホヌアする機会をもつことは平日であるということもあり無理だということになった、母島での滞在をホクレアの「Moananuiakea」の上映会をする日、一泊だけに変更したのだ、
それによりできた貴重な父島での一日に、せっかく持ってきたV-1 を漕ぎたい島のオハナに呼びかけて試乗会をすることになった、ボニンでは今までにない初のV-1 のお目見えなのだから、
扇浦には数日前からうねりが入っていたということもあり、島の西側にあるコペペ海岸というこじんまりとした浜にベンチもあり、白砂の美しくかわいらしい砂浜で試乗会をすることになったのだ、皆が仕事が終わって来れるように午後13時から日暮れまでやることにした、
超軽量で最新のV-1だけども、ラダー(舵)が付いていない、海と風と漕ぐ人が密接につながる不思議で魅力的なヴァア、古来の丸木舟を彷彿とさせるそのヴァアでこの海を漕いでほしかった、この太平洋のマナを最大限どこよりも感じれるここボニンで、
海のマナと自分の深いところがつながる特別な感覚をすこしでも島のオハナに感じてほしかったのだ、

即席のデモDay をやることになったので、午前中にぽっかりと何もない時間ができた、その日は北東の風が強かったので、風に向かって独りでアップで漕いで帰りダウンウインドで遊ぼうと軽い気持ちで海にでた、父島の北側には兄島があることで島を回ってくる風が入る程度だったので海面もわりと静かだった、父島に到着した初日にIkekai イケカイという6人乗りのヴァアで島一周を島のオハナたちやったので、その同じ航路を進むだけで良かった、
ただ違うのはその時と違い風が逆だったので、兄島と父島の狭い海峡は潮と風が真逆で大荒れだった、その荒れた海峡を無心で漕いでるときにラハイナへの祈りのことをふと思い出したのだ、ああ、このまま漕いで行けばマウイの方向に行けるんじゃないか、と、荒れた海を無心で漕いでるときはいつも時がとまる、
その父島と兄島の海峡を漕ぎ終えてひらけた島の東側の海域は風とうねりで凄く荒れていた、いたるところの岩場にうねりがぶつかり白波が炸裂していた、初日にイケカイで漕いだ時とはまったく違う海の景色だった、どこが安全な航路なのかもわからないほどにすべての海面が白波だった、ただここを乗り切ればマウイに近づくことできるという思いが強く、たまに感じる恐怖感はそのマウイへの思いに押しつぶされるようにすぐに消えてなくなった、そしていつのまにか午後のV-1試乗会のことは思考からなくなっていた、
荒れた海を漕ぐときは、思考がストップする、海のマナと自分だけの世界に入り、魂のこえだけが聞こえてくる感覚なのだ、肉体で漕ぐというよりも魂で海とつながる感覚といったらいいのか、、、うまく言葉で表現できないけども、もっと高い次元に自分がのぼっていく感覚といってもいい、
その見た目は荒々しいけどあたたかでやさしい海のマナにつつまれた自分の魂を導いているのがコホラだった、わたしをマウイへと導くように共にそばにいるのだ、、
どのくらい時間がたったのかわからない、覚醒めたときには、わたしはいつのまにか知らないうちに島の南側、東の海も見渡せる、南島の沖、マウイのすぐ近くまで来ていた、そこはもう穏やかで白波もない平和な太平洋の海だったのだ、
わたしはいつのまに島をほぼ一周していたのだった、
コペペに到着したときはもう12時を過ぎていた、浜にはまだ誰も集まっていなくてホッとした、


コホラに導かれるように無心で海を漕いでいた時、鮮明にそのラハイナの海岸線の景色とその背後に神聖なハレアカラ(太陽の棲む家という意味)とマウイの山々がその背後にずっと見えていた、

そのコホラはマウイから数千キロを僕に何かを告げるために来たんじゃないかと思う、

どんなメッセージなのか、まだわたし自身わからないでいる、



古都ラハイナはハワイ王国の首都があった場所だけれども、近世になってハワイがサンドイッチアイランズと呼ばれてからは西洋の捕鯨船が大挙して集まる港町として栄えた、そのころから西欧文化がどっとこの島に入ってき出したのだ、同じころにボニンアイランドも捕鯨船が豊かな水を求め、休息のために立ち寄る太平洋の島だったのだ、この2つの島はコホラでつながっていたのだ、

今思い返してみたら、初めての家族4人での海外旅行はマウイだったと思う、まだ次男のマイケルが生まれたばかり赤ちゃんのころにマウイ、それもラハイナに行ったと思うのだ、まだその頃は観光用のシュガーケインのトロッコ列車がまだ走ってたころだ、、そのときはたしかカアナパリのホテルに泊ったけれども、そのあと独りでマウイに来るようになってからはラハイナのダウンタウンにあるアーリアメリカン調のインに泊まって過ごしたことを思いだした、海の上にたつような「チーズバーガー・イン・パラダイス」「パイオニア・イン」「ラハイナ・イン」と、いついってもおひさまがサンサンと照りつけていて、ラハイナにはパームツリーよりも高い建物やホテルがないので空も青く高かった、 ラハイナとは「灼熱の太陽」というハワイイの意味があり、マウイには高い山があり貿易風の影響でいつもこの島の西側は晴れて乾燥しているのだった、そんなラハイナの暑さをわすれさせてくれる場所は大きな岸辺にあるバニアンツリーの木陰で、そのすぐとなりにある
「 Mo'okiha O Pi'ilani 」というHokule'a の姉妹ヴァアの工場には何度も足をはこんだものだった、その工場のある海側の砂浜にはMo'oleleという小ぶりのHokule'a よりも年配のヴァアが置いてあり、つねにボランティアによりリストアを続けていた、その景色とその場所の匂いがわたしは大好きだった、

アンクルKimokeo と一緒にハワイイの神話を学ぶためにマウイシアターにはオハナを連れて何度も何度も「'Ulalena 」を観に行った、そこでノーズフルートを演奏していたアンソニーの葬儀をしたラハイナ浄土院も、、

その全がいまは灰になり跡形も失くなってしまっている、

ラハイナの海況の向こうにはラナイ島が見える、モロカイ島も見える、何度も何度もこの海峡を6人乗りのヴァアで行き来した、冬の時期はかならずコホラたちに出会い、夏のじきだとホヌ(アオウミガメ)やナイア(イルカ)たちが大勢でわたしたちのヴァアを迎えてくれたものだった、

とにかくラハイナでの思い出はあまりにも長く多すぎて言葉にはいい尽くせない、 

そんな忘れかけてた記憶が、今回のボニンの海を父島を独りで一周したときに、ラハイナが心の目で見えるほど近くに感じ、そしてコホラの導きで蘇ってきたのだ、マウイの海から遥々ボニンまで海を渡りやってきて、わたしに何かを伝えるように、まるで忘れないで、と語りかけてくるように、、、意識の世界でわたしに呼びかけているように、、だから思わずこのnote に書き留めることにした、一生ラハイナの街並と、あの空と匂いとヴァアと緑の樹たちをわすれないように、


今年に入って、わたしの海洋民族としてのルーツがある平戸生月島の「島の館」での勇魚取り(古式捕鯨)の展示物を見てからというもの、その忘れていた昔の島の人たちの勇魚(コホラ)に対する畏怖の念やスピリットを思い出したと、そして今回ボニンの旅で何度もコホラに話しかけられ導かれ、それがマウイ、ラハイナにつながっただろうと考えると不思議でもあり、感慨深くもあり、
もしかして、平戸の生月島にやってきていた勇魚で島民に助けられた(小さすぎる赤ちゃんのコホラは捕獲しないで逃がすというオキテがあった)その勇魚(コホラ)の子孫の子孫が、わたしがマウイでヴァアを漕いでるときに出会ったコホラで、そのコホラが今回子供を連れてボニンまでやってきて、わたしをラハイナへの祈りの儀式に導いてくれた、初日と島を離れるその日の朝、海に出たときに大きく海面から飛び出してブリーチングしてくれたあのコホラかもしれない、ラハイナを忘れないで、と言いたかったのか、それとももっと何かを伝えたかったのか、海を助けて欲しいと!と伝えたかったのか、わからない、でもこの人間中心の物質経済世界の次元とはまったく違う自然界の次元でのメッセージだというのはわたしは感じる、

遠い過去と現在は密接につながっている、
海と大気からの水蒸気が雲をつくり雨が大地を木々を潤し海に還り、その海から雲がつくられる、、、
「地球上の海(水)は消え去ることなく巡り巡って常に循環している、そして原始から今までのすべてを記憶している」だからこそ、
わたしたちは生命の源である海を撫でながらアロハ(愛)をつたえるのだ、その効果は絶大で、今だけでなく未来の海にも伝わり地球上の水を浄化し母なる地球を癒やしてくれる、そしてわたしたち人間も癒やされるのだ、とわたしは思う、


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