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[個人史]自分は世界の中心じゃなかった

『人生の土台となる読書』用に書いたけど使わなかった原稿です。麻雀ばかり打っていた大学生の頃の話。ギャンブルからはいろんなことを学んだ。


 大学生の頃はひたすら麻雀ばかり打っていた。授業を受けていた時間よりも麻雀を打っていた時間のほうが長いくらいだった。
 そんなことになったきっかけは、大学の寮に入ったことだった。
 「がんばって働いたりしなくても、だらだら本を読んだりゲームをしたりしてれば幸せなんじゃないか」と、考え始めたのは完全に寮生活の影響だ。もし寮に入らなければ、今頃普通に会社員として働き続けていたかもしれない。

 高校生までの僕は、人と接するのが苦手で友達もあまりいない孤独な人間だった。そんな僕が、寮に入ってよく知らない他人との共同生活をやってみようと思ったのは、内向的な自分を変えたいという気持ちがあったからだ。
 寮の家賃は月4100円(光熱費込み)。部屋は4人部屋が基本だ。冷暖房はない。今思うと劣悪な住環境だけど、当時はとても楽しかった。
 人としゃべるのが苦手な僕を他人とつないでくれたのが、麻雀だった。  寮ではいつも麻雀のメンツが不足していたので、ぼーっと見ていると「一緒にやろうよ」と誘ってもらえた。
 麻雀なら、しゃべるのが苦手でも無言で牌をツモって切っていればそれで間が持つ。そして、人と話すときは何もない場所で向かい合って話すよりも、卓を囲んで麻雀を打ちながら話すほうが気楽だということに気付いた。

 高校生までの僕は常に自分のことばかり考えていて、世界は自分中心に回っていると思い込んでいた。
 だけど、ひたすら麻雀を打ち続けているうちに、そうした自己中心性が修正されたと思う。
 何事も自分中心で考えていると、麻雀をやっていても毎回「勝ちたい」「アガりたい」「自分が勝たないゲームには意味がない」と思ってしまう。
 でも、実際にはそんな風に毎回勝てるわけじゃない。麻雀は四人でやっているからだ。
 もし四人の実力が均等だとしたら、自分が勝てるのは四回に一回だけだ。あとの四回に三回は、自分は脇役や負け役になるしかない。
 自分の実力が他の三人より優れていたとしても、麻雀は運の要素が強いので、毎回全部自分が勝つというわけにはいかない。せいぜい、四回に一回勝つのが三回に一回勝つのになるくらいだ。
 最初は、自分が毎回勝てないことが苦しくて悔しかった。勝つ楽しさを味わいたいから麻雀を打っているのに、勝てないなら意味がないじゃないか。他の人が勝って喜んでいる姿なんて見たくない。
 だけど、何度も何度も繰り返し麻雀を打っているうちに、だんだんと、毎回自分が勝てるわけじゃないということを受け入れてきた。
 毎回自分が主役になれるわけじゃない。自分が自分の人生の主役であるのと同じように、他の人もそれぞれ自身の人生の主役なのだ。それは麻雀だけに言えることではない。どうやらこの世界は、自分だけのものではないのだ。

 天文学には「コペルニクスの原理」というものがある。
 コペルニクスは天動説に対して地動説を唱えた人だ。コペルニクスの原理とは「自分がいる場所は宇宙の中で特別な場所ではない」という内容だ。
 つまり、地球は宇宙の中心じゃないし、太陽も宇宙の中心じゃない。われわれがいるこの場所は、宇宙の中でどこにでもあるような平凡な場所に過ぎない、ということを表している。
 天動説が信じられていた頃は、地球は宇宙の中心で、太陽や月や星が地球の周りを回っていると考えられていた。
 地動説の登場によって、地球は宇宙の中心でもなんでもなく、ぐるぐると他の星の周りを回る一惑星へと格下げされた。
 それと同じように、僕という人間は世界の中心じゃないし、世界の中で特別な存在ではなかったのだ。僕はどこにでもいるような単なる平凡な一個体に過ぎなかった。そのことを、僕は麻雀によって思い知らされたのだ。麻雀が僕にとっての地動説だった。
 その事実を受け入れるのには時間がかかったけれど、結局、主役ではないときも自分なりの楽しみを見つけることが大事なのだ、という結論に至った。脇役として働く楽しさもあるし、負け役を味わうのもたまにはいい。自分のことだけじゃなく、他の人のことや、自分と関係ない世界にも興味を持つようにしよう。多分、僕に足りないのはそういうところだ。
 自分が世界の中心ではないというのは、麻雀以外の人生でもずっとうすうすと感じていたことだと思う。だけど麻雀は、点数や勝ち負けというはっきりした形でそれが表れるので、理解しやすかったのだ。

 寮には談話室というみんなが集まって遊ぶための部屋があって、そこでいつも麻雀をしていた。麻雀のメンツが足りないときはゲームをするか漫画を読んでいた。
 あの頃あんなに麻雀が楽しかったのは、みんな麻雀漫画を読んでいたからというのもあった。
 麻雀はただ遊ぶだけでも楽しいけれど、麻雀の周辺の文化、麻雀にまつわる物語や文脈を知っていると、より楽しい。僕らはいつも、麻雀漫画のセリフを真似て「爆牌」とか「御無礼」とかくだらないことをしゃべりながら打っていた。
 麻雀漫画には面白いものが多い。「近代麻雀」という麻雀漫画しか載っていない雑誌があるのはすごいよな、と思っている。「近代将棋」とか「近代釣り」とかそんな漫画雑誌は存在しないのに、なぜか麻雀漫画だけはそういうのがある。
 しかも今は「近代麻雀」しかないけれど、僕が大学生の頃は「近代麻雀」「近代麻雀オリジナル」「近代麻雀ゴールド」と麻雀漫画専門誌が三誌もあったのだ。いくらなんでも多すぎだろうと思う。どれだけみんな麻雀漫画を読みたいんだ。
 当時たくさんあった麻雀漫画の中で、断トツに面白かったのが『アカギ』『天』などの福本伸行の漫画だった。クセの強いアゴの尖った絵だけれど、ギャンブルの心理の駆け引きを描かせたら一級品。当時の僕らにとって福本伸行の漫画は、大学のどの授業よりも一般教養で必修科目だった。

 麻雀漫画誌でデビューして麻雀漫画ばかり描いていた福本伸行が、一般漫画誌であるヤングマガジンで始めた連載が『賭博黙示録カイジ』だ。
 主人公は、自堕落な生活を送る若者、カイジ。彼は多額の借金を返済するために命がけのギャンブルに身を投じていく。


 この漫画では、麻雀ではなく「限定ジャンケン」という今までに見たことのないギャンブルが登場して、それが異常なまでに面白かった。
 そしてそのギャンブル会場で始まるのが、敵の悪役、利根川幸雄による名演説だ。

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 Fuck You
 ぶち殺すぞ…… 
 ゴミめら……!
 おまえたちは皆…… 
 大きく見誤っている……
 この世の実体が見えていない
 まるで3歳か4歳の幼児のように
 この世を自分中心……
 求めれば周りが右往左往して世話を焼いてくれる……
 そんなふうにまだ考えてやがるんだ 
 臆面もなく……!
 甘えを捨てろ

この演説は、闇のギャンブルの主催者である利根川(50代くらいの男性)が、借金まみれの若者たちに「甘えるな」「戦って勝て」と叱咤激励をするという内容だ。

 今 言葉は不要だ……
 今おまえらが成すべきことは 
 ただ勝つこと 
 勝つことだ……!
 おまえらは負けてばかりいるから 
 勝つことの本当の意味がわかっていない
 勝ったらいいな……ぐらいにしか考えてこなかった
 だから 今クズとしてここにいる
 勝ったらいいな……じゃない……!
 勝たなきゃダメなんだ……!
(『賭博黙示録カイジ』1巻より)

 この演説は、冷静に考えると、非道なギャンブルに若者を誘い込む汚い大人の口先三寸に過ぎない。
 しかし、当時、やるべきこともわからず麻雀ばかり打っているダメな若者であった僕は、ちょっと心を揺さぶられてしまった。
 そうだ、利根川の言う通り、自分からは何も行動しないくせに、何か都合のいいことが起こるのをひたすら待っている自己中心的な子どもだ。
 この世界は自分に世話を焼いてくれるためにあるんじゃない。もっと自分で行動して何かを切り開いていかなきゃならない。精神が弱いからいつも人に流されるままで、したいこともないし、何をしたらいいかもわからないけど、意志や信念を磨かないといけない。
 でも、それにはどうしたらいいのだろう。何もしたいことが思いつかないし何もできる気がしない。
 一か八か、何か今までやったことがないようなことをして、人生を変えるような勝負に打って出るべきなのだろうか?
 しかし、うまくいかないときにヤケになって身を投げ出すというのは、ギャンブルでよく陥りがちな罠だ。それで麻雀で何度も失敗した。一見それは勇敢なように見えるが、思考停止して楽になりたいという甘えなのだ。でも、このまま止まっていてもジリ貧な気もする。
 行くも地獄、止まるも地獄。こんなどうしようもない状態で社会に出て生きていけるとは思えない。大学を卒業したら何をしたらいいんだろう。何もわからない。怖い。
 大学生の頃の僕は福本伸行を読みながら、そんなことをいつまでもぐるぐると考えていたのだった。

 ギャンブル漫画はなぜ面白いのか。それは、人生というものは多かれ少なかれみんなギャンブルだからだ。

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