見出し画像

輪郭

 

 現代の都市生活にあってリアルへのとば口は、都心の閉鎖空間にこそ開く。ふだんは気にもしないブロック塀を抜ける朽ちかけた木扉や、マンション地階のごみ収集場から地下へと降りる階段の先で、真実はつねに口を開けている。そこは精霊の現れぬ森であり、自我の輪郭は森奥でどろりと溶けだすときを待っている。
 
 線路際まで迫るスラムを列車が走り抜ける光景は、いまやバンコク近郊の観光資源になって久しい。東京以上に超高層化したバンコク都心部でも幾らかはまだ残っていて、プラープダー・ユンの短編「くりかえす歌」が描くのは、そうしたスラムを抜ける列車の乗客が耳にする、ある歌声をめぐる物語だ。通勤通学の客みなにとってお馴染みの、毎朝同じ場所で流れてくるその歌を、主人公のリンだけが知らずにいる。乗車中の彼女はMP3のイヤホンで両耳をふさいでいるからだけれど、スラムの中で列車が止まったその日初めて、歌声の存在にリンは気づく。
 
 ところで初めてわたしがバンコクを訪れたのは中学生の頃で、日系デパート前の歩道で話しかけてきた、10歳くらいの女の子の立ち姿をよく覚えている。彼女は頭の上のお盆に載せた袋入りの飲み物を売り歩き、弟だろう幼い子を連れていた。首をかしげながらわたしの目を覗き込み、笑って何かを語りかけてきた。でもドギマギして反応できずにいると、はしゃぐような笑い声を残してふたりは走り去ってしまった。砂埃で黄土色に染まって縮れたその長い髪や、黄ばんだ白いサリー調の服から当時そこらじゅうにあったスラムの住人だとすぐにわかった。そんな前世紀の一瞬をなお鮮明に思い出せるのは、その子と目が合ったとき世界が一瞬止まったからだ。
 
 徴兵された若者の訓練キャンプでいじめられる大柄で知恵遅れのアンノップと、アンノップを世話しつつも脱走をたくらむムットを主人公とする、もう一つの短編「使い捨てハミガキ」。いじめへ加わる上官にも背き、ひとりアンノップを守るムットはしかし、アンノップが不器用ゆえ大量に消費するハミガキのチューブを捨てず集めていることが我慢ならない。我慢ならない理由は説明されないままムットはある夜脱走に成功し、アンノップは守護者の消えた翌朝をただ受け入れる。淡々と描写は進み、それでもハミガキのチューブをめぐる一幕こそが大事な鍵なのだということは、読めば誰でも感じとれるように書かれている。
 
 日系デパート前の出来事を鮮やかに記憶するもう一つの理由は、帰国し高校生となった後も、あれは何だったのかとよく反芻していたからだ。当時その一帯はまだ、未舗装の路地も多くいつも砂埃が舞っていた。屋台のパラソルが当然の権利のように車道をさまたげ、老人が日がな道端に座り込んでいるのどかさがあった。ホテル上階の窓からは湿地の茂みと、トタンとベニヤ板からなるバラック屋根の入り乱れるスラムとが地平線まで続くのが見えた。そしてあの姉弟から感じとったきらめきは、そこが“貧しい人”の暮らす“危険な場所”だという刷り込みをたやすく貫いてきた。彼女の瞳に映る世界は、わたしのそれよりリアルだろうと想像した。
 
 車窓からのばした腕が人家へ入ってしまうほどに迫るスラムを、「むやみに危険な生活」としか感じていなかったリンはその日、歌声に導かれ列車を降りる。故障や事故でなく、「もっと大きな問題」で列車は止まったと彼女にはわかる。でも読者には説明されない。アンノップやムットの心模様も説明されない。イヤホンは単に外され、使用済みチューブは集められる。プラープダー・ユンの世界では伏線回収などされず、終盤で謎はむしろ倍加する。高校を出た年そのデパート前にわたしは再度立ち、大人になり移住してそこは日常の一部となった。訓練キャンプの塀を越えたムットは、その先で何かを見る。焦げ茶色の髪を揺らせて、何かを聴いたリンはさいごに微笑む。リアルはそのように息づいている。
 


※プラープダー・ユン『くりかえす歌 使い捨てハミガキ』福冨渉訳 書評

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?