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水圏


 目覚めの小一時間を、ふだんより大切に過ごす試み。として、まずは丸ごと執筆作業に充ててみる。手洗いやコーヒーを淹れるなど最小限の作業のほかは、寝覚めの空白のまま言葉の空白にただ向き合う。これまでにもたぶんくり返し思い至ってきたことだけれど、この作業には見通しがなく、キリもない。井戸から水を汲みだしつづけるようなもので、湧きでるかぎりいくら汲みだしても際限はなく、いつ水が涸れるかもわからない。ただ近頃ようやくわかってきたのは、概して言うならこの井戸汲みを怠るとこの自分は生きながらに死ぬということで、けれど水には質量があり、汲みだすには体力がいる。この体力が、思いのほか減衰している。あげくできることの総量が減り、毎日が早く過ぎるようになる。気忙しく国境を移動したり、身近な関係性へむやみに囚われたりするうちに、どうにも短くなった一日の時間をありていに、歳のせいにしてみたりしてやり過ごす。
 
 そうしてなにかのせいにする。身の内に観測される変化なり、沸き起こる想念なり感情なりを外化させることで切り離す、はがね色した自己防衛の霞に包まれる。このとき外化とは鎧化にほかならない。
 こうして覚醒めの際に、微細なる死活問題をひとつ片付ける。さて「歳のせいにしてみたりする」ことの、言い訳成分の由来を考える。


 一日の時間を、ひとはもっぱら太陽の運行と、それがもたらす生体のリズムにより感覚する。一方で、科学分野で太陽の運行から一日の定義が切り離されてから、すでに半世紀以上の「時間」がたっている。先鞭をつけたのはイギリスの国立物理学研究所(NPL) で1955年6月。以降、複数の国家がセシウム原子時計の導入に踏み切る。日本では1972年の計量法改定で、セシウム133原子の基底状態における2つの超微細準位間の遷移に対応する放射周期の9192631770倍に等しい時間を一秒の現示とする旨定められ、同時に東京天文台を現示機関とする項目が削除された。以降日本では国家として標準器を定めない大空時位時代がつづくが2003年改定の計量法(平成4年法律第51号)で、情報通信研究機構(NICT)と産業技術総合研究所計量標準総合センター(NMIJ)の原子時計が特定標準器とされ、一日の時間とはここで示される一秒の86400倍の値となった。ここにおいて今朝の日の出から明朝の日の出までを24時間とする思考は誤謬となり、この一秒やその86400倍を正確に感覚する能力をひとはもたないため、現行科学を導入する法治制度に準拠した人格を仮に「ひと」と定めるなら、「ひと」たるかぎり私たちは一日の時間の縮減感覚を、もはや「歳のせい」にはできない時代を生きている、はずとなる。
 
 質量が、疲労をもたらす世界観。ここ一年ほど、なにを考えても「疲れ」に直面する。深く考えようとすればするほど、「疲労」へと行き当たる。アウシュヴィッツをめぐり黙考しても、資本主義社会の未来について熟考しても、あるいは執筆なり映画なり身近な関係性の困難なりに拘泥していても、なぜかそうなる。わたし疲れているのかしら。プリーモ・レーヴィの、あるいはマーク・フィッシャーの、そして胡波の自殺こそ、これら事象の束を解きほぐす鍵であるようにも錯覚される。されてしまう。彼らは質量から解放されたか、自らを開放したか。その決断を非とする根拠は果たして是か。残された家族を考えろとかでなく、幸福をもたらすのはある種の熱源であり、神とはこの源の通り名で、疲労は熱の欠如の現示だろう。ここで今、ひとつの疲労の86400倍をひとりの自殺と仮定する。この八万六千四百時空を彷徨う鬱の冒険。その目に映る光景の、四肢覆う質量の。


 この科学信仰の時代において、科学は時間にさえ先行する。1967年以降国際標準となったセシウム原子時計では、一億年に一秒(10^-15)程度の誤差が生じる。2005年東京大学(当時)の香取秀俊はその千倍の精度すなわち三百億年に一秒程度まで誤差抑制を見込めるストロンチウム光格子時計の開発に成功した。今日、これを精度で凌ぐ可能性をもつものとして、イッテルビウム171光格子時計の開発が進行中である。日本でこの開発を進める産業技術総合研究所は茨城県の筑波研究学園都市に本部を置く。銀河系のどこへお住まいであれ、あなたの家からも秋葉原乗り換えにて行ける。

 土星の環の総質量は3x10^19kg、土星本体の一億分の五程度と推定される。1610年に土星の環を人類史上初めて観測したとされるガリレイが、その2年後環の消失を目撃し我が子を喰らうサトゥルヌスに擬えたのも無理のない話で、実際にはあまりにも薄すぎる環が地球に対し正面を向いたため、彼自作の望遠鏡では可視限界を超えたらしい。ところで地球に暮らす主観目線で、私たちはひと口に太陽系と言う。あたかも構成する星々がそれなりに拮抗する存在感をもつかのようにこれを語りイメージするけれど、現実には太陽系を構成する質量の99.8%を太陽が占めており、残る0.02%をなす惑星・小惑星群のうち木星の三百分の一、土星の百分の一の質量しかもたない地球など、無と言わないまでも塵芥に等しく薄い。この塵の表層うごめく大気圏を貫いて降り注ぐ太陽光線の、無量大数級エネルギーのごく一部を循環させる生物圏の突端で、どうしてか自ら瓦解をもたらす能力を「ひと」は身につける。動物は己の生に疲れたりしない。己が飲むでもない水を、底から汲みあげたりしない。
 そのようにしてこの小一時間、井戸の水面を浚っている。書かれた言葉に質量はない。  
 
 


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> プリーモ・レーヴィの、あるいはマーク・フィッシャーの、そして胡波の自殺
「よみめも45 魂消る」: https://tokinoma.pne.jp/diary/2972
「中国、その想像力の行方と現代」: http://www.kirishin.com/2019/11/27/39116/


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