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Which is more important?

 86回目です。φです。

 いよいよ子どもたちは夏休みが始まりましたね。子どもよ、精一杯遊ぶんだよ!

 と、同時に。親御さんたち、どうか無理をなさらず…子どもの元気の良さって大人のパワーを勝るからね。ほんと、あの小さな体からどうやってそんな体力が湧き出るのか…。

 私は子どもとあまり触れ合ったことがないので、自分が彼らと上手く遊べるかどうかは分からないけれど。遊んでみたいなぁとはよく思います。私未だにかけっことか、遊具で遊ぶの好きなので。

 熱中症には気をつけて遊んでほしいな。命あっての楽しさだからね!

 さてと。勝手に送ったメッセージはここまで。



Which is more important?

 私は先日の英会話の質問、Which is more important, your family or your friends?(あなたにとって、家族と友人、どっちが重要?)の質問でもやっとした。

 私はTo me, my friends is more important than my family.(私にとって、友人は家族より重要。)と答えまして。

 そうすると次の瞬間、Why do you think so!?(どうしてそう思うの?!)と猛烈に聞き返されました。私驚いたよ。突然すぎてびっくり。なにが?!と思いました。

 You know your family is always on your side!(知っているでしょ、家族はいつもあなたの味方だよ!)と言われまして…。

 まぁ確かに、そういう家族もあるかもしれない。常に味方になってくれて、支えになってくれる家族。素敵だよね!

 もしあなたがこのWhich is more important, your family or your friends?の質問をされたら、どう答えますか?家族?友人?それともそれ以外?



不幸せではないけれど

 私の場合はちょっと事情が複雑になってくる。

 私が摂食障害になったきっかけというか、諸々のメンタルの問題のきっかけというか、そんなこんなな理由は「家族」だった。

 家族だけが原因だ、とは一応言い切らないけれど。人のせいにするんじゃない!とか言われそうだし(笑)

 自分の意思を持ち始めたころから現在に至るまで、私は家族とは大きな喧嘩はしてこなかった。理由は、何を言っても無駄だから。それを小さなことから薄々分かっていて。私の意見は一蹴されるんだー。へー。いいや放っておこう。そんな感じ。

 私は大きな反対をしなかった。それによって、私の家族は「家族仲が良い」と思っている。良くも悪くもね。

 そのレッスン中に私は意見を変えた。My family is more important than my friends.に。その方がこの問題につっこまれることはないと私は判断したから。

 私がレッスンを受ける中で理解したことは、フィリピンの人たちの家族愛は素晴らしくあふれているということ。レッスン中に子どもの話やパートナーの話、そして親せきを含む家族の話。

 それらを楽しそうに、幸せそうに話す彼ら。私は見ていてすごく幸せを感じる。そうやって、温かい愛を渡して受け取って暮らしているんだろうな、と思うとすごく嬉しい。誰かが幸せに暮らしていることは、どこかには幸せがあるということだから。

 私は家族に暴力を振るわれたわけではないし、生きるために必要なものを提供されなかったこともない。必要なものはもらってきたし、学校にもちゃんと通うことができた。愛情だってもらった。

 そう書くと、私は不幸ではない。それは確実に言える。それどころか、十分にもらってきた。もちろん、感謝もしている。私には障がいもあるし、難病もあるしで育てにくさは、他の人よりもあると思う。けれども愛してくれている。

 「そこまでしてもらって、それでも不満を言うのか」と言われると私は反論できないかもしれない。けれども、私が最も求めたものは自由。唯一家族が与えてくれなかったものも、自由。

 私には夢があって、そのためには家を出る必要がある。子どもが親から独立するのは当たり前。いつまでも同じ家に住むことは当然ではない。私はそう思う。

 しかし、それは許されていない。私のほとんどは把握されているし、夢だって否定される。

 私はわがままなのだろう。それは自覚がある。私はわがまま!欲しいものは何としてでも自力で手に入れたいし、手に入れないと気が済まない。けれども、誰かに手伝ってもらってまでは手に入れたいとは思わない。あくまで、私は私の力でやることが前提。

 私が不幸せではないけれど、どうしても家族か友人か、その二択を選ばなければならない時に、家族は選ぶことができないだろう。

 私の性格と、家族の性格の不一致。お互いを理解し合うことはできなかった、というだけだと私は思っている。きっと、ただそれだけ。ちゃんと愛情はあって、悪い家族じゃない。



自分の価値観で人を判断することは正義?

 私がこのnoteで伝えたいことは、別に私って不幸せ!自由がない!でも生きるよ!とかではなく。同情するなら金をくれ!でもない。いや正直なところお金ほしいけど。ほしくない人はなかなか稀だよね!

 私の述べたような、一言で言い表すことが難しいバックグラウンドを持っている人に、「どうしてそう思うの?あり得ないでしょ?」という態度はよろしくない、いやむしろ相手の心に棘をさす可能性だってある、ということ。

 つまりは、自分にとっての当たり前は、誰かにとっては当たり前ではないということでもある。

 誰かにとっては喉から手が出るほど欲しかったものかもしれない。ほしくてほしくて、それでも手に入らなかったものかもしれない。ずっと昔に諦めてしまったものかもしれない。もしくは、前は持っていても失ってしまったものかもしれない。

 人間には人間の数だけ考えがあるし、思いも違う。記憶の残り方も違う。全部違う。

 だから自分の価値観=当然だと思うこと、それをすべての人に適合しては危険性が高くなる。私はそう思います。

 お互いに傷つけあわないためにも、相手の意見は聞いて、理由も聞いて。それで少しずつ歩み寄っていく必要があると私は思う。プロセスは長いし、面倒なことかもしれない。けれど、その時間によって誰かを傷つける可能性が低くなると思えば、長すぎることはないと思う。

 さてと。少し今回はシリアスな話題になったかも。読んでて疲れた人、ごめんね!

 少々重い話のように書いてしまったかもしれないけれど、私にとってこの出来事は「ただの一日の一コマ」。ああ、そういえば昨日はこういうことを思ったなぁ。うんうん。くらいで本日は元気に活動しています(笑)

 どんなことがあっても、とりあえず事実とは距離を取って客観的に考えてみる。それが私のやり方。

 それで出た答えは無駄になることはない、と私は思っています。例え自分にとって悲しい日があっても、「なぜ私は悲しいと感じたのか?どこに悲しみを感じたのか?」と考えると、ただの「悲しい思い出」が「私にとって悲しいと感じるもの」の分析結果になるからね!学ぶことができる。そしたら私、少しは進歩しているように思えるでしょ?ふふふ。

 価値観は誰にでもあるもので、それが良いとか悪いとかはない。ほとんどの場合はね。それを知ることで広がる世界もある。価値観は生きていく上ではなくてはならないものだと私は思う。けれども、扱いには注意、だとも思います。

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