パルミラ - 古き良き時代の世界の町へ 第4回

砂漠のなかの真珠だったパルミラ。隊商たちは、飢えと渇きと疲労のなかで常にこの町を夢見た。そしていま廃墟──渡る風がこだまする列柱群は落日に染まる。

パルミラは、今、シリアのまっただなかにある廃墟に過ぎない。だが、昔はメソポタミアとエジプト、メソポタミアと地中海世界をつなぐ隊商路の重要な中継基地として富み栄えた町だった。

メソポタミアの主権者がペルシャ、パルチアと変わり、地中海世界がギリシャからローマに変わっても、パルミラの隊商都市としての地位に変化はなかった。そして町は結局ローマ帝国の領域に入ったが、住民は各民族が入りまじっていて、独自の発展をとげた。

町自身は何の産業も持たないが、町を通過する商品への課税で栄えた。この中継貿易で巨大な富を蓄積し、財源たる隊商の安全確保のために軍隊を組織した。なかでも精強な弓兵隊は近隣諸国を威圧した。このパルミラが最盛期を迎えたのは、2〜3世紀のことだった。すなわち、“砂漠の女王”と称されたゼノビア女王(在位266〜272年)の時代である。

美しく誇り高いゼノビアは、ローマの司政官だった夫の死後、幼い息子に跡を継がせようとした。ローマがそれを拒絶すると、彼女は、敢然とローマに反旗を翻した。息子にローマ皇帝の称号“アウグストス”を名乗らせ、母子の肖像を刻んだ通貨を発行、帝国からの独立を宣言したのである。

怒ったローマ皇帝ヴァレリアヌスはパルミラ討伐軍を起こし、ゼノビアの軍勢を撃破した。捕われの女王は「黄金の鎖につながれ」て、ローマへ引きたてられた。破壊されたパルミラの町は、以来、砂塵のなかに埋もれたのである。

考古学者の手でここが発掘され、再び甦ったのは18世紀のことだった。

パルミラの入り口に立つ。アーチ式凱旋門がある。東西双方の世界からきた諸様式の混交する装飾彫刻群が、この町の複雑な文化的性格を物語る。

かつて砂漠を渡ってきた隊商たちも、この凱旋門を仰ぎ見ながらパルミラの町へ入った。遺跡巡りも、ここからはじめよう。

随所に残る富裕な市民生活の跡

凱旋門の前から150本あまりのバラ色大理石列柱が両側に立ち並ぶ。幅13メートルの列柱通りである。かつてはこの柱の合間に、町の有力者の彫像が置かれていたという。

列柱通りを奥へたどると、左手に円形劇場。町の中心にあたり、ステージの幅47メートル、奥行き10メートルの規模である。座席はもちろん貴族や富豪たちの見物席と一般市民席を仕切った柵などが残っている。

劇場裏手にはアゴラ(市場)がある。中国やインドからはるばる運ばれた絹や宝石、香料の荷をほどいた場所だ。列柱通りはアラット神殿に突きあたって終わる。背後の丘陵にはアラブ時代の砦が迫っていた。

凱旋門向かいのベル神殿群へ。犠牲の動物をささげた祭壇が残っていた。血を流す細い溝もつけてある。神殿群正殿の右側には、巨大な石片がある。その表面にはブドウ文様やナツメヤシ、ザクロ、バイナップル、オレンジ、他に天使の浮き彫りなどが見られる。

市街地彼方の丘から谷へ箱型の建物が点在する。1〜3世紀の富豪たちの墓である。5階建てや、地下室式のものなどもある。いずれも彫像や浮き彫りで飾りたてた豪華なもの。

ホムスと結ぶ街道を2キロほどいくとエフカの泉がある。奥行き1キロの洞窟に、澄んだ水が涌きでている。オアシスの貴重な水源だ。貸タオルと水着があって、泳げる。

強い日射しに疲れたらベル神殿群背後に広がるナツメヤシの林に日陰が求められる。遺跡から歩いて10分、現在のパルミラの町で売っているナツメヤシはここのもの。1ポンドも買えば食べきれない。

(TEXT by 黒木純一郎)

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早稲田企画制作『シルクロード 旅をする本』(朝日新聞社、1979年刊)からの転載です。文章は適宜、加筆修正しています。記事中で紹介している写真は「フォトライブラリOLDDAYS」でフルサイズ版を購入できます。

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