ペルセポリス - 古き良き時代の世界の町へ 第1回

アケメネス朝ペルシャの遺産、ペルセポリス(現在のイラン)。遺跡の浮き彫りや石柱は、ペルシャ帝国の強力な力を語りかける。1971年、ペルシャ建国2500年祭式典が行われた舞台である。

シラーズからイスファハンに向かう道をバスで約1時間。広大な平野のなかに現れた小高い丘陵は、慈悲の山(クー・イ・ラマート)だ。その前にアケメネス朝時代(紀元前538〜前331年)の首都ペルセポリスの遺跡がある。

この壮大な宮殿をつくりはじめたのは、ダリウス1世の紀元前520年ごろだった。アケメネス朝最初の首都パサルガダイからこの高原の地に都を移し、紀元前331年にアレキサンダー大王に攻め滅ぼされるまでの約200年間、歴代の王はここから各地を支配した。その支配下に置いた国は、東はインド北辺から西はエジプト、エチオピアまで23ヵ国におよんだという。その権勢のあとを、今、この遺跡に偲ぶことができる。

まず目に入るのは大基壇だ。高さ約10メートル。大きな石を巧みに組み合わせた基壇は、そのまま堅固な城、要塞の役目を果たした。基壇の面積は1万2000平方メートル。山腹の大地いっぱいに広がっている。

正面の大階段を登ると「クセルクセス1世の門」。“万国の門”ともいわれる幅7メートル、高さ10メートル余の巨大な石門だ。門の正面には2匹の大きな牝牛像が刻まれ、ちょうど宮殿を守る形である。この門をくぐってゆくと“謁見の間(アハダナ)”がある。高さ2.6メートル、横110メートル、縦90メートルの基壇の上に築かれた大建築だ。中央に6本ずつ6列、36本の列柱がある大広間があった。今は13本残るだけだが、当時の雄大さがわかる。石柱の上部は、木でつくった屋根があったと考えられている。

かつて発見されたダリウス大王の碑文から、この宮殿の杉材もレバノンから運搬されたという。ほかにも、象牙はエチオピア、黄金はバクトリアから運び、石工にはイオニア人とサルディア人を、鍛冶工にはメディア人とエジプト人を、レンガ工にはバビロン人をと、全領土の資材と技術者を動員したことがわかる。“謁見の間”基壇の石組みには「朝貢者行列図」が浮き彫りされている。当時、年のはじめのたびに多くの貢ぎ物を持って属領の使者たちが参賀に集まってきた図である。

さらに“百姓の間”がある。100本もあったという列柱も、今は1本もなく柱跡だけが残る。ここの壁面には、ゾロアスター教の主神アフラ・マズダや、王が蛇の尾とライオンの首を持つ怪獣と戦うありさまなどの浮き彫りがある。歴代の王の宮殿基壇には、それぞれの王の威光を示す浮き彫りが残る。そこに、動物の毛一筋までも精緻に刻みこんだすぐれた技術を見ることができる。

夜にはここで“音と光のショー”が催される。照明があてられ音楽が流され、王朝の興亡が英語で解説される。戦いの喚声や武具のぶつかり合う効果音など、うまく演出してある。また、当時ハーレムだった場所は博物館になっていて、宮殿炎上の際の布の残片などが展示してある。

(TEXT by 黒木純一郎)

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早稲田企画制作『シルクロード 旅をする本』(朝日新聞社、1979年刊)からの転載です。文章は適宜、加筆修正しています。記事中で紹介している写真は「フォトライブラリOLDDAYS」でフルサイズ版を購入できます。

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