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なぜ芸術が、文学が存在するのか。

キャンバスに描かれる、想像の産物が重ね合わさり

表層されていく様を考えていた。

ロシアアヴァンギャルドでは、ロトチェンコが筆を置きカメラを手に取った時のように現代の我々は移りゆく様の中で

失われていく感覚と、故に浮き彫りになっていく“クオリア”を如何に感じ取れるかがキーになっていると思う。

クオリア : 意識感覚や経験。質や感覚のことを言う。

いつの時代にも存在しながら、あってもいいがなくてもいいはずの文明の礎は今なお残り続けていて我々に語りかける。

でも確かに、わからない人がいるのも事実で理解しがたいと言ってしまえばそれがその本人にとって事実に“なる”。

いわゆるプロパガンダに加担しているのもあるなかで平野さんこのツイートが考えることを放棄しそうな現代に貫く。

文学や芸術の持つ力は、受け取ろうとして初めて発揮されうるものに変わってしまった。それは、近代の人類がもたらした退化である。がしかし、環境によるつまり継承する人々がいなくなっているのも事実。

文学も芸術も。

自己の判断基準で簡単に測れるものではないと知っているからこそ道は開ける、しかしながら、それを放棄してしまった無知の井戸に落ちたものたちは気づけぬもの。上に空があるというのに。。。


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