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人間は機械じゃない。だから「あるべき自分」なんてなくてもいい。

中学生の頃までお婆ちゃんと一緒に住んでいた。うちは妹が2人の5人家族だったから、そこにお婆ちゃんを加えた6人が、1つ屋根の下に暮らしていた。小学生の頃に、それまで1人で暮らしていたお婆ちゃんがうちにやってきて、その後中学生のときに近所の従姉妹の家に移っていった。どうしてそういうことになったのかは解らない。でもとにかく、小学生から中学生という人格の土台作りの時期に、僕はお婆ちゃんと沢山の時間を過ごすことができた。これはラッキーだった。

お婆ちゃんは女手1つで娘3人を育て上げた苦労人だった。その末の娘が僕の母親だ。お婆ちゃんの夫、つまり僕のおじいちゃんは、母が高校生の頃に心臓の病気でなくなってしまった。それ以降、お婆ちゃんが家業を継いで家計を支え、切り盛りしてきた。そんなわけで、お婆ちゃんは肝がすわっており、明るく快活で、親族はもちろん近所の人たちにも慕われていた。そして、とても賢い人だった。

ただ、それは市井の商人の賢さだ。戦争で中断されたためろくに学校教育を受けておらず、字もうまく書けないお婆ちゃんを、いつしか僕は少し見下すようになっていた。僕を毒したのは哲学だった。近所の図書館に通い、哲学の本を読み耽るようになった僕は、ある日お婆ちゃんにこんな質問をしてみた。「ねえ、お婆ちゃん、人はなんで生きているんだと思う?」

まず期待を裏切られたのは、お婆ちゃんが全く動じなかったことだった。眉をひそめるでも、逆に顔をほころばすでもない。今日のお昼は何を食べた? という質問にでも答えるように、何のてらいもなく、気負いもなく、お婆ちゃんは僕の質問に真っ直ぐ答えてくれた。答えが返ってくるとは思っていなかった。ましてやその答えが、ニーチェが没したこの歳になるまで、僕の座右の銘にして、生きる指針になろうとは。

中学、高校と哲学にかぶれるなかで、僕がとくに惹かれたのはドイツ語圏の哲学者たちだった。カントやウィトゲンシュタインだ。人はなぜ生きるのか? などと考えるとき、その「考える」ということ自体や、人間の考える能力に疑問を投げかけたのが、そうした哲学者たちだった。言っていることは結局よく理解できなかった。でも、そうした問いかけに、僕は自分の世界が危うく崩れかかるようなスリルを感じた。見ていた劇が、実は劇中劇だったときのような衝撃だ。

逆に好きになれなかったのが、20世紀はじめのフランスに華開いた「実存主義」だった。サルトルやボーボワールたちの思想だ。行動と実践を重んじるそのスタンスは、なんとなく政治的に思えた。当時の僕にとって政治はあまりクールではなかった。哲学にはもっと超然としていて欲しかったのだ。

その考えを僕なりに解釈すると、実存主義とはプラトン的なものとの決別だ。「プラトニック」が純粋な愛を意味するように、プラトンは愛でも徳でも勇気でも、この世にはその純然たる大元があると考える。イデアだ。どこかの洞窟か何かに、愛の大元がいて、僕らがこの世で繰り広げる愛は、その不完全な分身のようなものだと。

実存主義では、その大元を本質存在といい、分身を現実存在(実存)という。そして、後者の名前を冠している事からも解るとおり、前者を否定している。どこかの洞窟に潜んでいる愛の大元なんて、そんなものはないんだと(至極まっとうな意見に思える)。愛の大元。本質的な愛。本来の愛。愛のあるべき姿。そんなものはない。あるのはただ、僕がいま持っている愛だ。それがいかに不完全でも。矛盾していても。不格好でも。

機械には設計図や仕様がある。でも、実際の機械は、必ずしも仕様通りには動かない。バグや不具合がある。本質存在と現実存在。あるべき姿と、実際の姿。そんな対比は、機械にはしっくりくる。でも、僕らは人間だ。人間には設計図や仕様なんてない。あるべき姿、なんてものはない。あるのは、今ある姿だ。それだけだ。

人生に正解なんてない。キャリアに正解なんてない。恋愛に正解なんてない。そう言われれると、誰もがそうだと肯うだろう。いや、唯一絶対の正解がある。そんなことを言う人にはお目にかかれない。でも、実際はどうだろう。みんな人生に正解を求めてはいないだろうか? キャリアに。恋愛に。自分自身に。そしてあるべき姿を描き、現実とのギャップに苦しんではいないだろうか? あるいはそれがあると信じ、はっきりと描けない自分に苦しんではいないだろうか?

でも、そんなものはないんじゃないか。あるべき姿。理想の自分。ゴール。パーパス。だって人間は機械じゃないのだから。そうしたものがなかったら、僕らは存在してはいけないとでも言うのだろうか。自分のレゾン・デートル(存在理由)? そんなものもいらないんじゃないか。だって自分はもう、こうしてここに存在しているのだから。

あんなにしっくりこなかった実存主義だけど、僕の理解は正確なのかどうかは解らないけど、この考え方はいまの僕にとてもしっくりくる。あるべき姿。理想の自分。ゴール。パーパス。存在理由。そんなものは45年生きてきても結局見つかっていない。そして、仮に見つかったとしても、来年か再来年には変わってしまうだろう。だったらそんなもの、もうなくたっていいじゃないか。

本当に自分自身に問うべきことは、理想の自分・あるべき自分とのギャップなんかじゃなく、今この瞬間の自分のあり方を受け入れられるかどうかだ。いまここにある自分を、そのあり方を、自分は肯定できるのか。改めてそう自分に問うたとき、ぼくはできる、と思った。まあまあ、ではあるけど、悪くはない。格好悪く、小さく、情けない自分だけど、今この瞬間のあり方は肯定できる。

「人はなんで生きているんだと思う?」という質問に対する、お婆ちゃんの答えはこうだった。「今日の自分は、昨日より少し賢い。明日の自分は、今日より少し賢い。そうやってこの世の勤めを終えるその日まで、人は昨日より少しづつ賢くなり続けられるんだよ」。そして、これこそがまさに、僕の今この瞬間のあり方なのだった。自分のあり方を肯定できる理由なのだった。

学生時代、パリを訪れたとき、僕はなんの気なしにサルトルと、その隣にあるパートナーのボーボワールのお墓参りをした。お婆ちゃんは僕のボーボワールだったのかもしれない。あの時お婆ちゃんが僕に教えてくれたのは、まさに実存主義のような「哲学にして生き方」だった。今、この瞬間の自分のあり方を問い続けるだよ。そして、それを肯定し続けられるよう生きるんだよ。そんな哲学。そんな生き方。

その判断基準ははっきりと言語化されていなくてもいい。カッコいいものである必要もない。今、この瞬間、自分のあり方は自分で肯定できるものなのか? それはどれくらい? 出来ないのであれば、そうできるようにすればいい。もっと強く頷く余地があるのであれば、そうできるようにすればいい。ゴール。目標。理想。パーパス。存在理由。そんなものは全部なくてもいい。僕らは機械ではなく、人間なんだから。

おわり

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