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羊の瞞し 第5章 CHAOTICな羊(6)

前話目次

(6)ピアノの修理


 楽器店と運送屋の歪な関係について、具体的な例を挙げてみよう。
 楽器店Aが、運送屋Bと業務提携を結んでいるとする。Aの業務でピアノの運送が必要な時は、全てBに依頼するという取り決めだ。見返りに、Aからの依頼に関しては、Bは通常より安く請けることが約束されている。
 仮に、県内移動は一万円で請けることと決めたとしよう。しかし、Aは客からは二万円で請けるのだ。つまり、差額の一万円はAのマージンになる。便宜上、分かりやすい数値で説明しているが、さすがにここまで差額を抜くことはなく、実際は30〜40%がマージンになるケースが多いのだが。
 もっとも、ピアノの運送屋は、業務のほぼ全てを楽器店に依存して成立していた為、逆の考え方の方が現実味があるだろう。つまり、楽器店が二万円取ることにしたから、運送屋には一万で運べと命じたのだ。簡単に言えば、両者の関係性はそういう構図だった。
 問題は、Aを介さずに、Bに一般客から直接依頼があった場合だ。
 常識的に考えると、Bは好きな金額で請ければいいのだが、二万円より安く請けるわけにはいかない。言うまでもなく、Aが一般客から二万円で請けているからだ。その客が、Aに打診していない保証なんてない。むしろ、同じ地域の楽器店なら、真っ先に聞いた上で相見積もりを取る可能性の方が高いだろう。なので、Bに直接依頼があったとは言え、もし安く請けようものなら、Aの悪評に繋がりかねないのだ。
 言うまでもなく、Bにとって一番大切な取引先であり、仕事の大半を依存しているAの業務を妨げるような行為は御法度だ。その為には、Bは二万円以上を提示すべきだろう。そうしないと、Aのメンツが保てないのだ。

 ピアノが爆発的に売れていた時代は、どの運送屋も、仕事のほぼ全てを圧倒的にメーカーや楽器店に依存していた。なので、運送屋は自社の料金なのに、自由に定めにくい状態にあったのだ。
 だが、このパワーバランスは、90年代から綻びが出始め、二十一世紀に入る頃には崩れてしまった。ピアノが売れなくなった為、楽器店経由の仕事は激減し、運送屋も楽器店の言いなりに甘んじる必要もなくなったのだ。
 元々、楽器店を介さず仕事を取った方が得することは明白な上、運送屋の数も激現した。むしろ、楽器店の方が運送屋に気を遣わないといけないケースもあるぐらいだ。
 もう一つには、その頃、新たに台頭した中古ピアノ市場の急成長も一因だ。次第に運送屋のメインの仕事は、買取業者からの依頼へとシフトしていった。不要になったピアノを買取り、海外に輸出する業者が増えたことにより、一般家庭からピアノを引き取ってくる仕事がシェアを席巻したのだ。楽器を売らないと仕事にならない楽器店の運送とは違い、大手買取業者は、月に500〜1,000台もの運送需要があった。比重がそちらに傾くのも、必然だ。

 ピアノ専科は、この過渡期を上手く縫うように事業を展開出来たと言えよう。買取でも納品でもない、一般家庭から一般家庭への移動依頼は思いの外多く、ピアノ専科は格安配送サービスとして瞬く間に名を馳せるようになった。
 榊の経営手腕も、卓越していた。非凡で鋭敏な商売人の感覚が備わっていたのだろう。榊は、自身の古巣に当たる興和楽器や橘ピアノ配送センターとも、程よい距離を保ち上手く付き合っていた。
 移動依頼から買換え希望に繋がることがあると、榊は率先して興和楽器を紹介し、時には興和楽器へ客を連れてくることさえあった。また、移動の際にインシュレーターやカバー、椅子などの付属品を新調するケースもよくあるのだが、榊はその時も興和楽器から仕入れるようにしていた。
 その見返りのつもりなのか、興和楽器から榊へ納品の仕事の打診があったが、こちらは丁重に断ったのだ。技術的に新品を取扱う自信がない、という謙虚な理由を言い訳に、暗に橘ピアノ配送センターの技術を称え、仕事を奪わないように配慮したのだ。
 いつの時代も出る杭は打たれるものだが、急成長したピアノ専科が、同じ地域の業界大手、興和楽器と橘ピアノ配送センターとの間に友好的な関係を築けたことは、榊の手腕に他ならない。
 その一方で、榊は興和楽器を信用し、忠誠的、従属的な立場に甘んじるつもりは毛頭なかった。表面的には取り繕うものの、それは、会社の発展に必要な演技だと割り切っており、また、響や篠原の立場を守る為でもあった。勿論、二人を守るのも、単にピアノ専科にとって利用価値があるからに他ならず、両者への愛情さえ少しずつ揮発し始めていた。
 経営というマネーゲームの才覚に目覚めた榊は、いつしか人情を失い、無機質で残酷な打算に基き、無慈悲で冷淡な言動さえ厭わなくなっていたのだ。



 一台目のオーバーホールを終えた響は、自身の人生が揺れ動いているのを明確に感じ取っていた。調律師とは何か? どのような調律師を目指すべきか? 自分はどう在りたいのか?
 ……答えを模索し、迷路に迷い込み見失っていた目標が、ぼんやりと浮かび上がってきたのだ。
 修理がやりたい……今なら、はっきりとそう言える。だから、修理を学びたい。自分の手でオーバーホールを行いたい……そこにこそ、調律師になった理由も目標もあることに気付いたのだ。
 オーバーホールは、調律師の仕事の集大成と言えよう。解体から最終の音作りまで、全ての工程を理解し、それに沿った技術を身に付けないといけない。構造を理解し、材質を見抜き、知識を身に付け、感性を養わないといけないし、奏者の要望を汲み取る能力やピアノのポテンシャルを見極める眼力も必要だ。その為には、響には絶対的に経験が不足していた。

 興和楽器に入社して一年が経つ頃には、会社勤めのモチベーションは希薄になっていた。殆んど、生活の為だけに続けているようなものだ。いや、それなら他にもっと収入の見込めそうな仕事もある。それでも興和楽器を辞めない理由は、オーバーホールの仕事が取れる可能性があるからに他ならない。
 響は、時間の許す限り、二匹目のドジョウを狙って、スリープカードの掘り起こしを行うようになった。特に、教室の調律が入る月は比較的自由に動けるので、何とかオーバーホールの仕事を取ろうと電話を掛けまくった。
 しかし、どれだけ掘り起こしても、時折調律の実施に繋がるのが精一杯、その際にちょっとした修理は取れることもあり、場合によっては自宅工房へ運び込み、宗佑の指導を仰ぐことも出来たが、オーバーホールには誰も興味を持ってくれなかった。そもそも、オーバーホールをしないといけないようなピアノに出会うことさえ、稀だということを知った。
 いくら響が力説しても、予算に見合うだけの思い入れをピアノに抱いていない人が大半だし、必要性の理解さえ疎ましく思われた。OTTOMEYERのオーバーホールがすんなりと決まったのは、今思うと奇跡的な僥倖ぎょうこうだったのだ。

 一方で、篠原がコンスタントにオーバーホールの仕事を持ち込んでくれることは、何故それが可能なのか? という疑問と共に、とても有難く思っていた。全てが響の教材となるのだ。ピアノのコンディションは一台一台違っており、修理のレシピはその都度練り上げるので、毎回が新鮮に感じた。
 オーバーホールは、一台仕上げるのに一〜二ヶ月掛かる為、複数台を同時進行で作業することもあった。宗佑の工房は、寸断なく稼働するようになり、収入面でも大きく改善された。
 必然的に、響のバイトも必要なくなっていた。実際のところ、榊の会社は「ピアノ専科」になってから何もかもが刷新され、ピアノ運送の仕事がメイン事業となり、夜の仕事は激減していたのだ。社員やバイトも増え、事務所と倉庫も大きくなり、株式経営に切り替えていた。
 それでも、響はアルバイトを続けていた。だが、夜は仕事量も少なくバイトを必要としなくなったので、休日や日中のシフトの合間に手伝わせてもらうスタイルに変わっていた。当然ながら、毎晩働いていた頃に比べると、バイトの収入は激減した。その代わり、夜に時間が空くようになった。これは、響にとっては非常に有り難かった。宗佑の作業を手伝う時間が確保出来、修理技術を沢山学ぶことが出来たのだ。

 ピアノの修理は、学ぶべきことが沢山あり過ぎた。マニュアルのない、全てが工夫と応用の世界なのだ。その中で、宗佑が響に口煩く徹底したことは、作業云々ではなく「記録」だった。元の状態から解体、そして組立てと続く流れの中で、「どんな些細なことでも記録を取れ」と、くどい程に言い聞かされたのだ。
 しかし、この記録を取るという行為は、想像以上に難しい。いや、測定で得られる物理的な寸法を数値化して残すことは、比較的容易かもしれない。問題は、数値を伴わない感覚や、記憶に委ねるべき記録だ。
 部品の接着箇所や接着剤の種類、接着剤の固さや量、ネジの種類、木材の材質、木目の向き、フェルトの厚みと固さ、毛並みの向き、レザーの目の方向、ペダルの踏み心地、発音や止音の特徴……こういった記録は、感覚に委ねるが故に、その感覚を呼び戻す表現で書き記す必要があった。
 後々、何が重要になってくるのか、その見極めが出来ない未熟な技術者は、手当たり次第に記録を取るしかない。熟練者は、その大半が不要な記録だと解るのだが、残念ながら響は前者だ。
 幸いなことに、コツコツと記録を取る地味な作業を、響は楽しんでいた。そして、記録を取っていると、何故? という疑問が湧くことがある。疑問は必ず探究に繋がる。結果、本質を知ることが出来るのだ。そう、そこにこそ、宗佑の真意があったのだろう。
「解体」と呼ぶピアノをバラす工程そのものは、手順さえ覚えれば、一台一台臨機応変に対応する柔軟さは必要なものの、技術的にはどうってことのない作業だ。しかし、細かく記録を取ることにより、ピアノの構造や製造における本質的な「何か」を掴む足掛かりに成り得る。
 いや、それを活かせるか否かこそ、技術者の資質かもしれない。そういった意味では、響は資質があったと言える。それに、それを上手く引き出してくれる環境にも恵まれていた。

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