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夢Ⅰ(5)

第1話:夢Ⅰ(1)はこちら

第4話:夢Ⅰ(4)

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 「名前は何という。」先ほどと同じ問いが、赤い目の下で波打つように動く口から発せられた。今度は語尾に「ウヴゥゥ。」と明らかな怒気を感じた。

 咄嗟に「リックです。リック・グレンといいます。」と答えていた。即座に立場を理解したかのように姿勢も改めた。リックは、滑らかに言葉を発すことが出来たことに、少し感動した。
 「こいつは何だ。」「人なのだろうか。」それにしては、あまりにも大きかった。
 名前を聞いた影は。満足そうに目を細めた。口元が波打っている。
 数秒。沈黙の時間が流れた。
 何か聞かなければと思った。「あの、お名前を伺ってもよろしいでしょうか。」と思い付いた言葉を口にした。
 右肘がずきずきと、先ほどの転倒の衝撃を忘れさせてくれない。

 沈黙。

 今のはきっとまずい質問だったのだと、混乱する頭で、訳の分からない解釈をし、次の質問で場を繋ぐことにした。いい天気ですね。「ここは、ド。」

 「ザイゴん。」

 同時だった。重なって聞き取れない。しまったと思った。
 「すみません。もう一度お願いできますか。」会社に入って最も使ったワードトップ3には入っているだろう、言いなれたセリフを口にしていた。それは滑らかに、舌先から滑り出していった。
 影は苦々し気に、それでも素直に「おれは、ガィゴンフゥゥ。」と威圧気味に答えてくれた。「ガイゴン」と影はそう言ったように聞こえた。
 その発声が、まるで喉を内側から切り裂いているかのように、影は苦しそうな表情を浮かべている。ガイゴンと名乗った影は、間を置かず続けざまに問いかけてきた。
 その目に、何かを取り繕おうとしているような、弱い光を感じたが。
 「元の世界に戻りたくはないか。」
 内容のほうが重要だった。

 

 「元の世界」

 

 「世界」「元の」「どこの」「やっぱり」「どういうこと」「チャンピオン」「バラ色の」頭がかき回された。「戻れなくてもいい。」と最近は自分に言い聞かせていた。生きていけるから。でも、そんなのは嘘だった。戻りたい。目の前にチャンスがあるのなら、今すぐに戻りたい。
 「戻りたいです。」リックは、はっきりと答えた。言葉にすがっていた。
 右ひじの痛みは、もう意識の外に追いやられていた。戻れる。
 ガイゴンは、満足そうに口を波打たせている。戻りたい。
 「戻るためには、場所を移す必要がある。」目で誘いながら、ガイゴンは、のそりと立ち上がった。ガイゴンは「立ち上がった」のだ。今までは、体を丸めうずくまっていたのだ。塊のような輪郭を作っていたものは、もじゃもじゃとしたボロ布のような、または、毛のようなもので。実際の大きさは、大岩などという可愛いものではなく、その3倍はあろうかという巨躯だった。もじゃもじゃから四本足がのぞいている。
 リックは一瞬怯んだ。が、欲求の方が強かった。「長かった。」「早く。」「戻ります。」と焦りにも似た、とめどない欲求が体を支配し始めていた。ふらりと、2歩踏み出した時、足先にコツンと石が当たった。それは、拳よりも二回りほど大きなものだったが、大きさに見合った重さを感じなかった。

 石の未熟児。

 どうでもいいことを頭の片隅で考えながらも、視線がその異様なものの正体をとらえた。黄色味を帯びた白い石と思ったものは。「頭蓋骨」だった。しかも、頂部に大きく穴があいている。その悍ましい実物を目にした衝撃で、後方にのけ反ったとき、何かが、ものすごい勢いで風を切りながら顔前をかすめていった。倒れこみながらも、リックは状況を理解した。「若草の空地」から「影の森」へと続いた経験から、リックは学んでいた。生きるためには、自らの意思で、行動しなければならない。しかし、経験したことのない、未知の恐怖に対する免疫を持っている人間が果たしているのだろうか。体は瞬時に状況に対応してくれた。振り下ろされた「二撃目」を間一髪でかわしながらも、目の前の現実に対する恐怖に戦慄し、リックは叫んでいた。捕食される。「なんで!!」叫びながらも、これも正確に理解していた。生きるためだ。森の中で多くの時間を行進に使った。それと同じくらい、考えることも多かった。生物は、なかでも動物は、執拗に外から栄養を取り入れないと、生きられない。森の中で何度、コケや、根に生える植物になりたいと思ったことか。
 リックは、全力で洞穴の外に向けて走り出した。
 影が自分より遅いことを願い。名前などどうでも良かった。あの巨躯。考えないようにした。すぐ背後に迫ってきている恐怖をひしひしと感じながら、洞穴から夢中で飛び出した。

 まばゆい大空。

 急に視界が開け、飛び込んできた光景に、腰から力が抜けかけた。グラリと、バランスを崩しそうになる逃げる気力を、奮い立たせ走り続けた。
 世界は、夜だった。
 リックの知っている夜空よりも、数段大きく。
 数多の星にびっしりと覆われた空は、闇よりも光の領域の方が多い気がした。銀、赤、黄、青の星々。絶景。何でこんなときに。
 夜空に時と場合は無かった。あの永遠に続いていた森はどこへ行った。

 背後と上空に、完全に意識を持っていかれ混乱の中にいたリックは、前方の確認を怠っていた。突然、左足が浜を踏みぬいた。浜辺だと思っていたその緩やかに傾斜していた砂地は、海面から一段せりあがった崖の上にあったのだ。

 ひとときの無音。

 「海面。落ちている。」認識と、顔面から胸にかけて襲い掛かった激しい「痛み」の信号が同時に脳に流れ込み。
 リックの体は、波間に飲み込まれた。

 

 

 海は、世界の出来事には無関心に、断崖を背にして夢中で踊り続け。
 夜空では、きらきらと鮮やかに星々が輝いている。
 銀に赤に黄に青に。

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                    ⇒第6話:夢Ⅰ(6)はこちら

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