夢Ⅰ(38)
Ⅵ
足を止め、リックは羽織の襟をしっかりと立て直した。
傾斜は黙々と続き、思考は遠い過去に溶けてしまっていた。
両脇を連なる黒々とした山脈を思わせる、どしりとそそり立つ根に挟まれ、ヌエ達一行は、根と根の間に出来た谷のような地形をひたすらに登っている。ゆっくりと、高度を上げるごとに、大気に含まれる冷気が、その濃度を増していく。
周囲には、孤立した低木や葉の小さな植物が点々と生えるのみで。
雲か霧かに、白く搔き消された森は、後方に消えていた。
先頭の《茶色》の合図に歩みを止め、一時の休憩を挟む。森でヌエ達と仕留めた魚の干物を少し口にし、また黙々と歩く。足元は、コロコロと細かな石が固まり、こんなところにも何者かが立ち入るのか、斜面を蛇行しながら小道のような道しるべを残している。
コロコロと足の裏を、石の擦れ合う感覚が通り過ぎる。
コロコロと。
右足が捉えるはずの小石をうまく掴めず、受け損なった身体をのせて滑り始めるのを、とっさに踏みとどまる。途切れることなく続くはずの流れが乱れることで、体表をひやりとした汗が覆う。
踏みとどまりながらリックは、体から滲む汗と共に違和感なく抜けていく何か。本能として供えている、危機に対する警鐘のようなものをはっきりと感じた。が、次々と迫る行動指令に流されてしまう。
次の一歩を踏み出す。
また、右足を踏み出さなくてはと。
《赤色》が呼びかける、弓の練習を。流れるようにこなし。
《青色》の隣で、短剣を振るう。流れるように。
選択ではなかった。強制されたわけでもない。
ヌエ達は、優しく。リックの中で起きている変化を。
彼らのいる草原に踏み込んだ頃から。
それよりも、もっと前から始まっていた変化を、感じ取っていた。
リックにもたらされた、一つの強烈な意思を磨きだすように。
変化は、本人には気付くことの出来ないほど、ゆっくりとしていて。
でも、決してもとに戻ることはなかった。
少しづつ、少しづつ。薄白く輪郭を無くしていく周囲の靄のように。
歩を進めるごとに増す冷気のように、深く、さらに深くと。
弓を繰る標的を、選択したわけではない。
流れるように、短剣を振るう先に浮かんでいる者は、誰かに強制されたわけでもなく。
戯れに火を放つ大小様々な姿の「力の民」。その輪郭だった。
森を抜けてから17回目の長い休息。
朦朧とした白に遮られた中で過ごす、昼との境界の無い17夜目を越えた。
目を薄く開け、左腕を下に、低木を潤す水玉をリックはただ眺めていた。
出発する頃合いなのだろう。《茶色》の柔らかな足音が、隣に腰を下ろす気配を感じ。左腕で上体を起こした。彼を見上げる頭の中の靄は晴れない。
朝の挨拶を口にする。
「おはよう。」と。一字づつ、絞り出すように、詰まりながら。
彼も、おはようと返してくれた。
「さてと。」と、それはどこか《灰色》の口調に似ていて、《茶色》独特の大らかな粗さも備えていた。
荒涼とした斜面には、二人のやり取りに聞き耳を立てる気配はなく。
ほかの二人のヌエ達も起きてはいるのだろうが、荷の整理を進めているのか、リックと《茶色》の間に流れるものを波立たせることはなかった。
「俺たちの目的の場所は、もう、すぐそこなんだ。」
穏やかな視線は、傾斜の少し下方に向けられている。
今回の休息は、ヌエ達の気持ちを整理するためのものであったと、彼は続けた。
それは、草原から過酷な雪原を越え、ここまで怯むことなく前進を続けたヌエ達にしても、この旅の最後にして、最終目的地であるその場所が気持ちの整理なしに踏み込むことの出来ない覚悟を要求される場所であることを伺わせた。
「この森の核は、すでに存在として完成していて。そこに踏み込もうとする俺らは、森にとって異物なんだ。」《茶色》はこれから起こることを、順々に彼の言葉でリックに伝えてくれた。
出会った頃の草原で、詰まりながらも彼の口から紡がれた一言と。終着を前に、彼に答えようと、リックが口から絞り出す一言、一言が重なる。
《青色》と別れたドーム状の大部屋から持ち出した、あの青い光の石が、異物を排斥しようとする森から一行を守ってくれていること。石は、「始めの王」の旧友にして、千代の平和と引き換えに王を「力の民」に引き渡した三神官のうちの一人「δ」の持ち物で。
石に宿る青い光は、「抜き出された彼の『心』なんだ。」と《茶色》は、傾斜を眺めながら静かに口にした。「遠い昔の、忘れられた技術さ。」とリックに目をやったが、それはリックの表情を確認するためではなく、すぐにまた、もと来た傾斜を追った。
「彼は。千代の平和が終わった時は、この、俺たちが『果て無き森』と呼ぶ巨大な森を使い、『草原』を閉じるように言い残したんだ。」
「『草原』を守り続けていた δ の『心』を。森の中心で、大樹に取り込まれ。『果て無き森』の一部として眠る彼の『体』に戻すことで。」
そして、「この旅が終わるとき本来は。俺らも森に取り込まれるんだ。」と。
《茶色》達は、国から前哨地を任された選りすぐりのヌエ達だった。
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