夢Ⅰ(16)
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「つ、つまり、僕らには。個人を区別するため、それぞれ名前があるんだよ。」リックは、平静を取り戻そうと必死になりながら、蛹男の相手をした。「名前がわからない」「一体いつから」「僕はどうしてしまったんだ」いろいろな疑問が頭の中を駆け巡った。
影の化け物とのやり取りを思い返した。あの時は、正確に答えられていたような気がする。そういえば、影の化け物も名前を尋ねたときに、同じように苦しんでいなかっただろうか。
「他にも、もしかしたら『なくして』いるのかもしれない」と思った。しかし、リックには何を無くしているのか分からなかった。名前が無くなっていることに気付いたのも偶然だった。
「区別するために名前がいるのかい。」蛹男は、興味津々だ。「君は、君で。僕は、僕なのに。」リックはかなり疲れていた。追跡。名前の消失。目の前の変なやつの相手。この問答に意味はあるのだろうか。「そうだね。」「名前に意味はないのかもしれない。」名前がない。僕は何という名前だったのか。僕は本当に存在していたのか。名前をなくすというのは、想像を絶する苦痛だった。僕は何だ。
「そうなのか、名前に意味はないのか。意味がないが名前の意味。」「シダは。シダで。木は、木だね。」蛹男は、ぶつぶつ一人で何かしゃべっている。
リックは、その場に座り込んでしまった。前進しなければいけなかった。このままでは、本当に「何もかもなくなってしまう」という焦りがあった。だが、進む方向がわからなかった。奴らの顔が脳裏に浮かぶ。追わなければ。
「君とても怖い顔をしているよ。」蛹男の言葉がリックの理性に突き刺さった。蛹男は、相変わらず爽やかな顔をしている。本当に、気持ちの楽な奴だなと思った。肩から力が抜けた。腕からも力が抜けたが、短剣は離さなかった。名前をなくしたリックにとって、短剣だけが存在の証明となっていた。
リックは、ここまでの経緯を蛹男に話すことにした。何か答えを期待していたわけではなく。気持ちを紛らわせたかった。
「若草の空地」の話。「とても気分のよさそうなところだね。」「僕も行ってみたい。」そよそよ「そうなんだ。」「とてもいい場所だった。」
「影の森」の話。とても怖かった夜のこと。気の遠くなるほど、長い長い間、一人でその森にいたこと。「僕は夜も好きだなあ。」「そんなに広い森があるのかい。」「そこも見てみたいなあ。」くりくり「僕はもういいかな。」「一人は寂しいしね。」
「影の化け物」の話。食べられかけたこと。「その人には会わなくていい。」ぶりぶり「僕も。」
「崖の棚」の話。優しい家族と過ごした時間のこと。子供が生まれたこと。子守をしたこと。「とてもいい人たちだなあ。僕も会いたい。」「かわいい子だね。僕も子守がしたいなあ。」ふらんふらん
奴らが来たこと。「ひどい人たちだね。森を焼いたって。」「痛かったろうなあ。」蛹男は涙を流していた。
祖父の話はしなかった。
そして、奴らが元の世界に戻って行ったこと。
全てを聞き終わり、蛹男は静かになった。気持ちが少し楽になっていた。「だから、僕は奴らを追っているんだ。」「だから。ってどういう意味だい。」蛹男は聞き返してきた。リックの中では、今の言葉ですべての説明を終えたつもりだった。
「話を聞いていなかったのかい。」「奴らは、崖の棚の家族にひどいことをしたんだ。彼らの世界をめちゃくちゃにして。」祖父を。「僕は、彼らがとても好きだったんだ。」思い出して体が熱くなる。「僕も好きだなあ。会ってみたい。」「でも、だからってどういう意味だい。」「追いかけてどうするのさ。」蛹男は、真面目に爽やかに聞いてくる。この頭の良くなさそうな男に答える必要はあるのだろうか。また、最初の葛藤があったが、今度は答えることにした。
「追いかけて、奴らの世界に入る。」「そして、奴らにわからせてやるのさ。崖の棚の家族の痛みを。」そして、僕の痛みを。「この短剣で。」短剣を握る手に力が入る。「え、それはつまり。君って意外と怖いことを考えているんだね。」「また、怖い顔をしているよ。」蛹男は、顔をしかめている。
「で、そのあとはどうするのさ。」「奴らを痛めつけて。」リックはその問いにすぐに返事が出来なかった。奴らを痛めつけた後、そんな世界。おそらく、リックは生きてはいないだろう。相手にするのは、もしかしたら大国。一人でも多く道連れに出来れば。
蛹男が爽やかに見つめてくる。返事を待っている。「そのあとは、考えていない。」いや、考えないようにしていた。「そうなのかい。」「じゃあ、それが終わったら、また戻ってきてよ。」「また、おしゃべりしようよ。」
リックは、何故かわからないが涙が出そうになった。
全てが終わったあと。その約束に意味はあるのだろうか。僕は、一体何のために生きているのだろう。
ここにいるリックは、もう「リック」ではなくなっているというのに。
蛹男が静かに歌いだした。とても、いい歌声とは言えなかったが、語りのようなその歌は、リックの心にしみ込んだ。
紡ぐ。我らは紡ぐ。言葉を紡ぐ。
音に乗せ、体を使い。
腕を。足先を。肩を。頭を。広く、小さく。
我らは、紡ぐ民。
声で。体で。我らは紡ぐ。
世界に終わりがあるのなら、紡ぎが終わりを超えていく。
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