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夢Ⅰ(9)

第1話:夢Ⅰ(1)はこちら

第8話:夢Ⅰ(8)

☆主な登場人物☆

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 崖の上を駆け抜ける風が寒気を帯び、夜は一段と冷え込むようになった。
 冬の気配はもうすぐそこまで迫っていて、麓の森では、木々の合間を小動物達が冬支度に追われ駆け回っている姿を良く見かけた。

 崖の棚でも、冬の到来に備えて、食料の確保や風よけの準備が進められた。冬を越すための風よけは、崖の岩肌の窪みを利用し、木の枝で骨組みを組み立て、冬毛への生え代わりで抜け落ちる彼らの毛と森で集めた泥を組み合わせて作られた。風よけの作成には、リックも積極的に加わった。
 夏のあの夜、家族の一員になった赤ちゃんも、自らの意志のまま、役目を果たしていた。
 彼は、兄や姉、そしてリックに良く甘えた。冬支度に追われる家族の足元を走り回り、転がり、頭を打ち、口に入れ、噛み。有り余るその力を自らの学習のために全力で使っていた。彼にとっての1日は、リック達の1月分、もしくは1年分に相当し、彼の新たな肉体は超高速で世界の理を咀嚼し吸収していった。体格差のあまりないリックは、何度か取っ組み合いの遊びの最中に崖から蹴り落されかけた。笑い事ではなかった。恐るべし子供の無邪気さ。彼は、それを見ていた親や兄姉に𠮟られてはいたが、堪えている様子はなく。すぐに忘れ、走り回っている。リックは、その度に「大丈夫です。」と引き攣った笑顔で彼らに答えた。

 

 森の木々の葉が生気を失い、崖の棚に根を張る大きな一本の木に茂る葉が次々と枯れ落ちると、大寒波とともに、本格的な冬が到来した。
 夜は、もはや彼らの体無しでは越えられなかった。
 毎年こんなに寒いのかと聞くと、父親と祖父が揃えて首を横に振った。

 曇天の日々が続き。そのままの勢いで崩れ続けた天候は、吹き殴るような風を伴う雪を大量に崖の棚の上に運んだ。
 風よけの中では、3日目を迎えても一向に快方に向かわない天候に、不安を感じていたリックに、祖父が寄り添ってくれた。彼の明るい瞳に見守られていると、リックの胸は温かい輝きで満たされ、不安を感じる隙間を失った。
 7日間降り続いた雪は、風よけの入り口を完全に塞いでおり、外に出るためには、父親と兄とリックの3人で雪を掘り進まなければならなかった。雪を掘り進む作業は相当に骨が折れ、雪の外に顔を出すまでに半日を要した。外では雪が、崖の輪郭を完全に覆い隠してしまっていて、一人で出歩くと誤って崖から転落する恐れがあったため、リックは水を飲みに行くとき以外の、ほとんどの時間を風よけの中で過ごすことになった。

彼らにとっては、雪が積もったことは、喜ぶべきことであり、標高の高い崖の棚で固まった雪は、外から風よけの厚みを増し、室温を保つ役割を果たしていた。

晴れた日には、力を持て余している弟の相手をするために、兄が崖下へ出かけることがあった。崖の上り下りの練習を兼ねたお出かけに、リックも良く同行した。弟は一度、勢い余りかなり上空から、崖下へ転落したことがあった。リックは、跳び上がるほど焦った。助けなければ。冷静さを一瞬失ったリックの体は、兄の背中の上で少し浮き上がり、あと少しで弟の後を追い、一緒に崖下に落ちそうになった。咄嗟に兄の毛にしがみ付き助かったが。そんなリックとは対称的に、兄は落ち着いていて、いつもと変わらない調子で崖下へと降りて行った。崖下では弟が、けたけた笑いながら、雪に出来ている足跡を追い回していた。リックはほっとするとともに、その死をも恐れない行動力に生物の持つ力の根源を目にした気がした。その一連の出来事は、言葉として捉えようとすると、まるで霧でも凝視するかのように、姿を消してしまったが、生きるという意味に近いような気がした。

 

そんな満たされた日々が続いていたある夜。リックは、いつものように、弟の相手をしながら忙しい時間を過ごしていた。リックの前に、弟の相手をしていた姉は、今は注意を惹かないように片隅で息を殺して休憩している。了解です。「今は僕の番です。」

底知れない無限の体力を秘めた怪物を前に、ほぼ全力での取っ組み合いを繰り広げる。もはや相手の方が頭一つ分大きい。腹に2発。肩に1発。見事な打撃を見舞われて、肩で息をしながら立ち上がった時だった。父親と祖父が、同時に首を持ち上げた。今まで見たことのない緊張した光が、2人の目の中で動いている。リックは、異変を察知し、襲い来る怪物に休戦を持ち掛けた。休戦宣言は一足遅く、無防備なリックの右胸を前足の綺麗な一撃が貫いた。お見事。

興奮している弟を制止しながら、満身創痍で立ち上がったリックは、父親のもとに近づき「何かあったんですか。」と尋ねた。父親は、風よけの外を気にしているようだった。リックに視線を移し、静かに立ち上がった。そのまま、兄に視線を送り一緒に来るように伝えているようだった。父親と祖父、兄が風よけから外に出ていく。リックは3人の背中に「僕も行きます。」という言葉を投げかけていた。何か力になりたい。僕でも何か出来るはずだ。

父親が振り返り、首を横に振る仕草を見せた。「だめだ。」と目には強い光がともっていた。覚悟が。しかし、その仕草が終わる前に祖父が、優しく間に割って入った。家族間の絆はとても強く、家族を信頼し、それ故、家族内で起こる出来事をいつも一定の距離から見守ってきていた祖父が初めて見せた意思表示だった。祖父の目には、優しく明るい光が戻っていた。じっと、リックの目を覗き込むと、何を見たのか。父親に向き直り、語り掛けているようだった。「彼も見なければいけない。」と。父親の目が、一瞬、悲しみを帯びた。父親は、リックを心配してくれていたのだ。何かとてつもないことが外で起こっている。

リックは、祖父の背に跨り外の世界に出た。

初めて触れる祖父の背中は、広くがっしりとし、どこか草原を思わせる温かい香りがした。

 

しっかりとした足取りで進む祖父の背中に、右肩から脇を通り腹へ、とても大きな傷跡があることを、リックはそのとき初めて知った。

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                   ⇒第10話:夢Ⅰ(10)はこちら

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