見出し画像

エッセイ | その人にとっての一番になりたい

SNSとしてのnote

 私にとって初めてのSNSはnoteである。
 何度も書いているが、私がnoteを始めたのは、去年(2021年)の8月8日。

 それまでは自分が思ったことや考えたことは、身の回りにいる一部の人に話すか、あるいは自分の胸の中にとどめておくかのどちらかだった。
 はじめてダッシュボードを覗いたときは、1000人の人に自分の記事が読まれたんだ!、という大きな感動を感じたものである。そして、もっとヨリ多くの人に自分の記事を読んでもらいたいという欲求が強かった。今でも多少そういう気持ちは残っているが、いつしかダッシュボードの数字というものが、ある種の幽霊のように感じることが多くなった。

ビュー数、スキ数

 よく言われる通り、noteのビュー数というものは、単に画面に表示された数字に過ぎない。実際に読まれたかどうかまでは判断できない。
 コメントをいただけば、ちゃんと読んでもらえたと実感できるときもあるが、スキを押されても、ただボタンを押しただけかもしれない。そう思うと、実際に記事を読んでいるのは、せいぜい20~30人程度かなと。
 だから、幽霊のようなスキ数とかビュー数を求めて投稿することは虚しく思えるようになった。
 とはいえ、ちゃんと読まれているかどうかの指標は、そういった数字から推測するしかない。
 じゃあ、そういう数字があまりあてにならないとすれば、なにを基準にしたらよいか?

嗅覚と皮膚感覚

 一言で言えば、自分の嗅覚というか、皮膚感覚に依るしかない。
 今日投稿した記事を読んで、過去の記事までついでに読んでいただいた人がいたり、自分の意図をキチンと汲み取っていただけたと感じられるコメントをいただいたとき。そう感じられたときには、喜びで満たされる。
 また、意見が私と異なったとしたも、私が見落としていた論点をキチンと提示していただけたときも同様である。
 反論のための反論みたいなときは、嫌な気持ちになることもある。しかし、一抹の真理を含んでいるコメントのときはやはり嬉しい。少なくとも、私の言うことを理解して下さったということだから。

一番になりたい

 ところで、最近よく思うようになったのは、「一番になりたい」ということ。
 ビュー数やスキ数で一番になる、ということではなく、その人がその日に読んだ記事の中で、最も強い印象を残すような記事を書くこと。
 共感を求めるわけではない。あえて批判を求めているわけでもない。同意を得られるか、不同意かということもどうでもいい。
 ただ、読んだ人に強い印象をあたえ、その人の常識を少しでも揺さぶることができるような記事が理想。
 一番嫌なのは、当たり障りのないことを書いて、迎合するような記事。
 薬ではなくてもいい。毒でもいいから、今日読んだ記事の中で、その人を大きく変えるような記事を書くこと。
 薬にも毒にもならないような記事は、読んでも何も現状を変える力がない。
 私が望むものは、ひょっとしたら、反倫理的なものかもしれない。

コメント欄

 毎日数多く投稿される記事の中で、「この人がいるから私はnoteをしているんだ」と思われるような人に私はなりたい。
 まぁ、コメント欄で論争を仕掛けてくるような人は嫌だが、ちゃんと記事を書いて反論して下さる方は大切にしたいな、と思う。
 大絶賛は嬉しいが、疑り深い私は、「本当はそう思ってないでしょ?」なんて思うことも多い。罵倒されるより、気分はいいけれども、心酔されるのも嫌だ。

自分の記事が一番大切

 結局、noteの中で一番大切なのは、私自身がなにを書くのかということ。コメント欄を閉じている人に対して、「交流を求めないで記事を投稿することに意味があるの?」みたいなトンチンカンなアホなことを言う人もいる。
 語弊はあるが、他人は自分をうつす鏡に過ぎない。
 コメントだけが交流ではない。故人の書いた一冊の古典を読んで、顔は分からなくても、しっかり手を握ったと感じられることもあるではないか。
 一方通行に思えても、言葉を直接交わすことがなくても、コミュニケーションは可能だ。

まとめ

私は我が儘だ。

次の記事が私の言いたいことに最も近いような気がしている。

 

この記事が参加している募集

noteのつづけ方

振り返りnote

記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします