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変化が美しい、と思えるのは植物のおかげかもしれない

先日買ってきた桜の枝もの。

蕾の多いものを、花屋さんが見繕ってくれた。

大きな、大きな枝は部屋に飾るのには少し大きい。

みっつに切ってもらって、わさっと両手に抱えて帰った。


わたしの部屋は寒いので、人間には堪えるが花には丁度いいかもしれない。(はやく咲きすぎない、という意味で)

そんなふうに思ったばかりというのに。

なんと翌日咲いた。

「ハロー!」

我が家での開花宣言である。

はや。


ちっちゃな可愛い花をつけた、枝。

さらに今日。

だいぶ増えた。もうお花見である。

買ってきて、4日目。

あまりに早々にお目にかかれたものだから、ちゃんと開花させてあげられた安堵と、散り際を想像する寂しさ。

なんというか、もう一回買ってきて、二回転目いけそうな勢いで季節が進む。


新潟の3月は全然桜のシーズンではなくて、街中の桜の木はおそらく蕾も無いんじゃないかと思う。

ここしばらくは特に天候が安定しない。

ひどい突風が昼夜問わず吹き荒れる。


外の桜は元気にやっているだろうか。

へし折れたりしないだろうか。


そんなことを考えながら、咲いたり散ったり表情を変えていくこれからを、もう散るだけとわかっている部屋の桜を眺める。


経年変化は「ものがそこにある」ことを強く認識させてくれる。

美しかったときの姿を、思い出という形で残してくれるからかもしれない。


だから好きなのかな。

天然石もヴィンテージやアンティークも。革も。

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