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別れ

眠れないから書く。普段の形式は無視。全部思ったことを書く。辛くなったとかそういうわけじゃなくて心が耐えられるかどうかわからなくなっちゃった。

さっき友達とzoom飲みをしていて、「どうしてそんなに卑屈にものを考えるの?」と聞かれた。自分はなんでこんなんなんだろうって考えていたら、誰にも話していなかったことを思い出した。

これが原因ではない。ずっと前からわたしはこんな性格だ。だけど、きっと少なくとも影響はあったんだと思う。ようやく涙が止まったから、書く。


2年前の今頃、祖母とお別れをした。その日わたしは友達と数ヶ月前から約束していたHump Backのライブに行く予定で、高田馬場のライブハウスに向かっていた。友達は、耳鳴りからドクターストップがかかってしまい、来られなかったが。1人で物販に並んでTシャツとサコッシュを買い、何を頼んだのか忘れたけど、飲み物とコインを交換した。

ちょうどその1週間くらい前、祖母とテレビ通話をした時、思い出せないくらい衰弱した祖母が、「関わりたくない人、嫌な人とは若いうちは関わらなくていいんだよ、ばばちゃんはそうやって生きてきたから強いおばあちゃんになったんだ」って教えてくれた。わたしは全部背負いこむ癖がある。全部を真に受けて、傷つくところがある。多分それを知っていたんだろう。いまだに直ってはいないけど、その言葉があるだけで楽になれる気がした。わたしが頑なにTwitterの固定ツイートを変えない理由は、忘れたくないからだ。

とにかく、そんなことがあってからライブの3日前に祖母は目を覚まさなくなった。高熱を出し、苦しそうで、何度も声をかけたけど目を開けてくれなくなった。握った手を振り解かれた時、「熱いからって寂しいよ」と思った。そんな記憶がある。

思い出しながら書いてるから脈絡も何もない。

ライブは楽しかった。ずっと生で聴いてみたかった曲を聴き、池袋の大好きなつけ麺屋で夜ご飯を食べた。買ったばかりの新品のTシャツにスープが跳ねて、シミになった。何回洗濯しても落ちなくなるとは思わなかったなぁ。その頃は。そうやって少し遠回りをして帰った。今になって、そんなことしなきゃよかったって思う。

帰ってきて数時間後にずっと介護をしていた父から連絡が入って、急いで祖母の家に向かった。結論を言うと、わたしは最期に間に合わなかった。

親戚が集まっていた。「みんなが来るまで耐えてくれたんだね」と誰かが言った。わたしがきた頃にはもう遅かったのに、何でそんなことを言うんだろうと思った。わたしは、最後、何も伝えられなかったのに、どうしてそんなことを言うんだろうって思った。泣きながらバイト先に次の日のシフトを休みたいと連絡を入れた。忙しい時間だったのか、オーナーは素っ気なかった。でも月が綺麗だった。

祖母のことが大好きだった。1番健康的で生き生きしていて、趣味がたくさんあって、ずっと一緒にいたかった。こんなダメなわたしのことをたくさん褒めてくれて叱ってくれた。小学生の時、家出をした時も優しかった。あなたの歴史好きはばばちゃんの遺伝だねって言ってくれた。ばばちゃんの作るせりのおひたしが好きだった。お酒が好きなばばちゃんと一緒にワインを飲みたかった。母が盲腸で入院した時も、弟が生まれる時も、寂しくないように楽しいことたくさんしてくれた。ガストのキムチチゲ鍋が好きだったのも覚えてる。新しいものに適応するのが得意で、Wi-Fiを繋いだのも、大きいパソコンを設置したのも、最新型のカメラを買ったのも全部ばばちゃんが先だった。Excelを使いこなして町内会の経理をこなすばばちゃんが誇りだった。でも、素直になれないから、なかなか会いに行かずに結局ちゃんとさよならできなかった。スマホにしたから、LINE、始めてくれたのにほとんど会話できなかったね。

褒めてくれるときに「上等だね!」って言ってくれるのが何より嬉しかった。

祖母は友達が多くて、いろんな人が会いにきてくれた。みっちゃんって呼ばれる彼女が、わたしの知らない祖母で何だか嫉妬した。それと同時に弔問客にキレる数回しか会ったことのない祖母の弟に苛立った。祖父は祖母の眠る顔を写真に収めていた。わたしは、ただ呆然とその光景を見ていた。葬式のとき、弟がわたしの背中を撫でて落ち着けてくれた。泣くなよって言ってくれた。でも弟が声を噛み殺して泣いてたのも知ってる。知らない間に弟の背はわたしなんてとっくに追い越してて、だけど中学生にはつらい現実を必死に受け止めようとしてた。わたしは弱いから、支えてあげられなかったけど。

祖母の介護関連で母は祖父と険悪になり、それから祖父にも会っていない。父も母も祖父が苦手になってしまったから、流れでわたしも弟も会っていない。疎遠になってしまった。良い言葉ではないと思うけどタイムリミットがあるのに、このままでいいんだろうかと思う。今の状況じゃ会いたくても会えないけど、そうじゃなかったとしても、わたしには勇気がない。

祖母とお別れしてから数ヶ月後のわたしの21歳の誕生日に、夢を見た。悪夢だった。祖母が出てきたのに、悪夢だった。未だにあんな夢を見た自分のことを許せない。それから夢に出てきてくれなくなった。最後に会えたのがあの夢で、ずっと苦しんでる。

あの日からどう生きたらいいかわからない。苦しんでいる人を見るとわたしが苦しめばいいのにって思ってしまう。去年の夏、母も病気になった。母とわたしはずっと仲が悪くて、やっと仲良くなれた矢先のことだった。夏休み、星を見に行ってパンケーキでも食べに行こうねって約束してたのに、全部できなかった。世界がこんな状態じゃ、次、いつその約束が叶えられるかもわからない。だから家で下手くそなホットケーキを焼くしかない。大切な人たちが被るつらいこと、全部わたしがなればよかったのにって思う。自分が何者で、生きていてなんの価値があるのか、自分なんかよりもっと価値のある人間が苦しんでいる。どうしてだろう。


これ以上別れるのが怖いから、親しい人を作りたくない。これは逃げになるのだろうか。わたしはどうして生きているんだろう。

このコロナ禍で時間ができて自分のことを見つめ直したら、あまりに空虚で笑えなくなってしまった。こんなんで愛されたいなんてお門違いなのではないかとも思う。

久々にHump Backを聴いたら全部思い出して涙が止まらなくなってしまったので、全て忘れてしまう前に書いた。殴り書きのようなものだけど、忘れないように残しておく。当時、あんなに小さいライブハウスに行ったのに、いつのまにか有名なバンドになっていた。2年前に取り残されたわたしと違っていて、劣等感がすごい。わたしと彼女たちは無関係なのに、勝手に関連づけて辛くなるの、いい加減にやめなきゃと思う。今日も泣いてしまったけど、星丘公園、いつか笑って聴けるようになりたい。
















わたしの結婚式、見たいって言ってたのにごめんね。空の上からでも見せられそうにないよ。




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