17時10分を耐えて待つ女の子

 上の子の保育園の降園後は、たいてい近所の公園で30分ほど遊んでから帰る。近所の小学生も多く、かけまわったりたむろしてゲームしたりしているような大きい公園だ。私には、そこにちょっと「気になる」女の子が居た。

 その子は、カラフルなゴムで髪をぎゅっと後ろで一つに結んで、前髪もピンで留めている。あたたかそうでファンシーな色合いのもこもこの上着を着て、なぜか青いファイルを抱きしめて、すべり台やブランコでぽつんと一人佇んでいる。

「気になる」女の子

その日も上の子と遊んでいて、トイレに行ったあとだったかと思うが、たまたまその辺を歩いていたその子に上の子が話しかけることがあった。「ねえねえ、上の子ちゃん今トイレでおしっこしてきたんだよ!」(上の子は報告魔で、道ですれ違う人やエレベータで同乗する人などによく気軽に話しかける)。

その女の子は「あっ、そうなんだ」とすこし驚いた様子をみせたあと、「わたしはくもん行ってきたんだよ」と、教えてくれた。

「くもん? この辺にあるんだ」と私。
「えっとね、あっちをちょっと上がったところの方」きょろきょろと視線をさまよわせながら話す女の子。
「そうなんだね、知らなかった」
「そう、習字ならってるの。これ今日書いたやつ」
彼女は早口でそう言って、青いファイルからもぞもぞと「千」と大きく書かれた半紙を取り出し見せてくれた。

忙しい女の子

それから少し経った日、公園で遊んでいるとき、またその子を見た。まっすぐ前を向いて早足で向かってくる。また、青いファイルを抱えている。視線が合う。

「こんにちは、今日もお習字行ってきたの?」
「そう」とまた青いファイルをがさがさと開き、「日」と書かれた半紙を見せてくれる。「このあとスイミング」
「えっ、ふたつも? すごいね。毎日行ってるの?」
「習字は火曜日だけ。スイミングは水曜日以外ぜんぶ」
「そうなんだ」

 習い事をしている子は珍しくない。6歳にあがると全体の8割はなにかしらの習い事をしている、と以前教育番組で見たことがある。

 というのも、朝から晩まで仕事に合わせて子を預かってくれる保育園と違って、小学生になるとカリキュラムが夕方前に終わってしまうからだ。親が仕事から帰ってくる前にぽっかり空白の時間が出来てしまうので、それを学童や習いごとで埋めるというやり方だ(このへんの労働と保育をめぐる複雑な事情が、いわゆる "小1の壁"や"小3の壁"である)。

 それにしても、同日に習いごと2つかあ、と考える。多くて、頭がこんがらがっちゃいそう。忙しいんだな、最近の小学生って。

 上の子が走り出してしまったので追いかけようとすると、その子も付いてくる。そのまま私を追い抜き、2人でかけっこして遊び始めたので、そのへんの花壇に座って見守る。

17時10分

  上の子の休憩のタイミングでぽつぽつと話す。名前や年齢のこと。この辺の小学校に通っていること。だんだん日が暮れる。遠くで17時のチャイムが鳴る。まだまだふたりの遊びは終わる気配を見せない。そろそろ帰らないとな、と思いながら時計を見ていると、また上の子とその子が戻ってくる。

「あのね、17時5分か10分になると、おじいちゃんが迎えにくるの。だからそれまで」
「そうなんだね、じゃあ上の子ちゃんもそれで帰ろうね」
「えー、上の子ちゃんまだ遊びたい」

また駆け出して行ってしまう上の子。女の子は律儀に追いかけて遊んでくれている。遊具の影で、女の子が上の子をぎゅーと抱きしめてだっこしたのが見えた。

 少しずつ日が暮れて、長針が「2」に迫ってきている。お迎えはあの人かな?ーー違う。あの人? いや、また違う。私はなぜか、「本当におじいちゃんは来るのだろうか」と心配になってそわそわする。そうして「2」を過ぎて少し経ち。

「あっ!来た」

と言うなり荷物を取り駆け出し、彼女は公園の外にあっという間に消えてしまった。あわてて「え? バイバイ!」と言うが果たして聞こえたか。ほんの1秒か2秒ほどのことだった。子どもの別れはあっさりしているなあといつも思う。

 それにしても、と感慨にふける。いつもあの子は、一人で17時10分を待っていたのか。彼女自身が忙しいからか、馴染めてないからなのかはわからないけど、周りの小学生に混じれないで、じっと滑り台の上から見て。青いファイルの中身を温めて。

親以外の目線と出会う

 彼女の両親はきっと共働きなんだろうな。お迎えに来たおじいちゃんに「あのね」と上の子と遊んだことを話すだろうか。きっとスイミングのあとでは、お父さんやお母さんに習字の作品を見せてあげるんだろうな。視線をさまよわせながら「あのね」と早口で話す彼女。今日は上の子も女の子も楽しそうで本当によかった。

 知り合いのお父さんで「娘が学校に馴染めなくて、小1から不登校で」という話を聞いたのを思い出す。小学生って、思うより子どもじゃないんだろうな。気も遣えるし、空気も読めてしまう。

 青いファイルを抱えて佇むあの子。面倒見がよくて愛情深い。本当はいつも友達と遊びたかったんじゃないか、と勝手に想像する。習字とスイミングの間の空隙を公園で待っている彼女。何を考えて17時10分のお迎えを待っているのだろうか。耐えているのだろうか。さびしくはないだろうか。

 きっと彼女の両親は公園での彼女を知らない。親は親以外の目線で子どもと相対することは出来ない。年齢が上がれば上がるほど、学校での姿、友達との世界、どうしても親が見えない触れない世界は増えていく。そこで苦痛や不快はもちろんありえる。それが経験だと思う。でも、親としてそこに困難があることを知っているのと、あることすら知らないのとでは、きっと子どもへの態度が大きく違う。

もし自分の子たちが、小学生にあがったとき耐えさせていることがあるのだとしたら、知らないではいたくない。学校や公園での姿を知るには、どうすればいいのかと考える。ひとつは学校や習い事の先生と話をすること。あるいは……ママ友。

(ママ友、ほとんどいません)

子どものセーフティネットとしての地域の目はやはり重要なんだな(と頭では理解した)。

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