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K先生に「介護士のスイッチ」を入れるべきか迷った話

 中学生ぐらいのとき少し出入りしていた華道のK先生に、先日ひさしぶりにご挨拶に伺う機会があった。0歳の子どもをお披露目しに行ったのだ。

K先生は今年86歳になる。背骨が変形して丸まり、髪は後頭部に少し黒髪がある程度だ。それでも未だに現役で教室を開催したり、展覧会に出品したりしている。その時も、ちょうど教室の最中だった。

「先生、お久しぶりです」
「まあ……、ひろみちゃん、……ずいぶん雰囲気が(変わったのね)」
「そうですか? 親になりましたから」

はたと気づく。少し私はしゃべるのが早かったかもしれない。10年以上前とは違うのだ。耳も遠いかもしれない。少し声を大きくしようか。

「K先生も、お変わりないですね」
「そうですか? ……いろいろ、歳をとるということは、壮絶ですよ」

「壮絶」。そのワードが、ぐわわんと私の体に響いた。にこにことゆるめていた頬の筋肉がすとんと落ちる。壮絶だって。
K先生は、背骨が曲がり随分身長が低くなっていた。インスタレーションのような大きな作品も手がけられていた先生。花を生けるのにずいぶん苦労されていることだろう。

自分の働く有料老人ホームの入居者の面々が思い出された。皮がたるみ、皺が深くなり、内臓が疲れ、あらゆる骨がきしむと訴える人たち。K先生と同じぐらいの歳。先生は、たしか未だに一人暮らしをされていたはず。どんなに大変なことだろう。

わたしはその時、K先生に、自分の「介護士のスイッチ」を入れかけた。そして、なぜか迷った。


「先生、作品が出来たので、おねがいします」

生徒さんが声をかけた。「はいはい」と先生が向かう。「うーん、これは……」と花器と作品に向いて、渋い顔であれこれと直している。傍らで生徒さんは小さくなっている。先生の後ろ姿が大きい、と思った。

「介護士のスイッチ」

声を大きくして、なるべく耳元で、ゆっくりわかりやすく話す。そう喋ろうと決めることがわたしにとって「介護士のスイッチ」の一つだ。演劇のようだとも思う。介護士という役になるのだ。

わたしはなぜあのとき、K先生に対して「介護士のスイッチ」を入れることに迷ったのか。そこに逡巡、あるいは抵抗感があったのは、「介護士」役になることで、K先生との間に断ち切られそうになる「なにか」があったから、なのだろう。

私にとって「介護士」役になることは、相手を「老化した体をもつという困難を抱えた人」と定義することだ。それは、相手を「肉体」としてそれ以外を捨象し、自分の等直線上に置くこと。歩くときに足は上がっているか、体は曲がっていないか、腰がひけていないか等、客観的な指標に置き換えて計測、サポートを判断する。

それは、個々人の思想や尊厳を切り離した見方なのだろう。どんなに偉大な人物であっても、器械の粒度で見てしまうということ。そうやって体をデータ化しを集めることで、現場では高齢者諸氏のサポートと、その改善に努めている。それは必要なことだ、と科学は言うだろう。客観と主観を切り離すだけ。「介護士のスイッチ」を入れるとは、ただそれだけなのかもしれない。でもそこにためらいを感じたのはなぜなのだろう。幻痛に過ぎなかったのだろうか。

苦味

私は、K先生に対して、彼女の身体と精神を切り分けることを恐れたのだろうか。K先生に対してそれを戸惑うのに、職場で行えているのはなぜだろうか。老人の昔を知る人ほど、そのためらいは大きいのだろうか。

あとになって考えれば考えるほど、疑問が浮かんだ。答えはまだ出ていない。K先生がいつまでもお元気であればいい、と思った。その思いが、彼女のためでなく自分のためだと気づいている。

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