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to be continued

最近やたらTwitterにもnoteにも下書きをしている。恐ろしいことにnoteの下書きが102記事になっていた。(なのでこの記事は絶対に投稿するw)


私は出だしはいいけど、終わりにするのが苦手なのだ。
子どもの頃はゲームっ子でRPGが大好きだったけど、全クリした数の方が少ない。攻略本片手にゲームし、直前になってクリアが惜しくて全てを網羅しようとワールドを周り、疲れて飽きて辞める。

目標も、あるときはいいけど達成してしまうと迷子になる。次は何を目指せばいいんだ?あれをやってはこれにも手を出して、みんなある程度できるけど、どれも中途半端な器用貧乏。

ゲームのジョブでいうと、魔法使いになったかと思えば剣士をやり、どれも極めないから何の専門家にもなれない。
双子座は遊び人とか、私は魔物使いとか言われた気がする。どちらも自分に力があるというより、何が飛び出るかわからない感じ。


そして前職では私は私のことを「優秀な補欠プレイヤー」と思っていた。
事務作業、外作業、料理、内職、仕切り役、サポート役…どれもある程度はできるし、どれも一定以上はできない。

色んな作業をやる職場。職員の人数が増えてきて、ある程度の部門分けをしようかとなった時、多く出たい作業のアンケートがなされた。
男の人なら外作業に出たいとか、そんな感じ。

「私はどれも極められないし、毎日同じことをすると苦痛なので毎日違う方がいいです」と言った。職員18人だったかな。職員そのくらいで専門を作らなかったのは私だけ。

何にも秀でてないくせに、部門ごとに会議があると全てに出ないといけないし、誰かが休む時には穴埋め役としてどこにでも出る。私以外の選択肢がないこともある。逆に、私が休む時は誰でも私の代わりはできるので困ることは滅多にない。
でも補欠は案外暇じゃないのだ。誰の話も聞けるから相談もされるし、誰かの苦手分野を自分の仕事のついでにやったりもする。

それでも、地味で評価されにくい、自分自身が「人より優れていない」と評価できない劣等感に陥りやすいポディション。

それでも、私は器用貧乏なこの立場が好きで楽しくて合っていると思っていたからやっていたのだけど。



「終わりにするのが苦手」というのは、全てを中途半端に手出しするこれと似ている気がする。
何を極めるのか決めないから、終わらせるか決めないから、どれも同時並行する。すると、遊び人のように何のスキルを得ているのかわからない。魔物使いのように色んな魔物と付き合うけど、力があるのはあくまで魔物である。
補欠は、終わりが見えない永遠に未完成のような存在。字の如く、欠け補う。何かが欠けていなければ補うこともできない。完成したら必要はない。




最近言葉がまとまらない。たぶん、言葉が溢れすぎて止まらなくて、言葉を手持ちのカードのように机に全て広げてしまっている。

そうして、広げすぎると終わり方がわからなくなる。最初から1枚のカードを出して話せばいいのに、気づくと3,4枚と同時に出している。縦に深めればいいものを、横に広げてしまう。すると帰り際は、広げっぱなしで終えるか、無理やりまとめるしかない。


きっと私は、基本的に広げっぱなしなんだと思う。人と話すのが好きなのだけど、それは誰かとの別れ際はいつも「End」ではなく「to be continued」だからなんじゃないか。
ゲームも、漫画もドラマも好きだけど、作品にはいつか「End」が来る。

物語は途中が楽しい。だから、本よりも生身の人間の物語を聞く方が好きなのだ。(本も読むようになったけど)


noteを書くと言葉が出すぎてまとまらないから、いつもto be continuedになってしまう。to be continuedのまま投稿すればいいのだろうけど、誰かが読んでくれるのであれば何かが伝わってほしいくらいの気持ちはある。

たぶん私にとって、書くことは「頭の中を広げたい」ことで、投稿すること人目にさらすことは「伝えたい」ことなのだ。
両方を満たそうとすれば、中途半端な文章になる。まぁ実際いつも両方満たそうとして半端だけど(笑)

伝えたい欲が最近希薄で、書きたいだけだから、下書きばかりが増えるのだ。でも、そういう中途半端な自己満足の言葉たちもできれば「投稿」という完成の場に立たせてあげたいなとも思う。


という気持ちを書けば、to be continuedでもいっかと思えるかもしれないと、まとまりなく書いているのがこの記事。

Endのある完成された作品もほしいけど、中途半端も悪くないんじゃないかなという気持ちも込めて。

私は永遠に未完成なのだから。


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