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日記

先週から、落ち着かない毎日が続いていた。安定を徐々に取り戻しつつあり、ようやく日記を書く気分になった。

私たちは簡単な理由で、安定を欠いてしまう。

僕の場合は、スマートフォンの不調という恥ずかしいほど小さな些細なことで、崩れ始めてしまった。使っているスマートフォンをSIMフリー携帯に切り替えるための手続きがスムーズにいかなかったことがきっかけだった。使用に制限が出てしまったり、設定がうまくいかずに電源自体も入らなくなってしまったりもした。何度も何度も繰り返し、また色々な復旧ツールなどを使った。あれこれしている間にどんどん身体は過緊張していった。それに気づいてはいたが、どうにもならなかった。

この冬は、その中で多少の波はあっても比較的落ち着いたこともあって、こんなことで崩れていくことに驚いた。まったくスマートフォンが起動しなくなった数時間の落ち込みは、恥ずかしいけれど、想像以上だった。師匠のエド・モーピン博士の動画を撮ったまま、バックアップしていなかったことも大きかった。後悔は、呼吸を浅くさせ、肩の緊張を強めた。

事務仕事を後回しにしながら、色々と試したが、うまくいかなかった。落ちこんで寝付けない中で、また動かないスマートフォンのボタンを押すと、普通に復旧した。たまたまという印象だった。そこから少し気持ちが高揚し、また眠るのに時間を要した。

スマートフォンが起動しなかった程度で落ち込み、身体は緊張するし、生活のパフォーマンスがひどく下がってしまう。反対に、起動した程度のことでひどく舞い上がり、言葉数が多くなるような浮足立った自分になってしまう。

鬱的なものと躁的なものが、たった1つの小さなアクシデントで引き起こされ、その影響は数日は続いていることを感じ続けていた。コミュニケーションの中で、あるいはピラティスのグループレッスンでの誘導のリズムやトーンで。食事も過食気味になったり、甘いものを食べる場面も多くなっていた。

僕という人間は、僕という人間を信じないように心がけている。いつも自分はおかしくなっているのではないだろうか、大丈夫だろうかと疑うようにしている。昔の武術の人たちも同じように生きていたらしい。その疑問を持てないと、人は簡単に人を傷つけてしまったり、自分自身を壊してしまう。そうやって気をつけていても、どうにもならないこともたくさんあるし、より良く生きていくのは簡単ではないなと思う。

スマートフォンが起動しないだけで、レッスンの誘導のリズムがほんの少し速くなったり、合わなくなってしまう。あるいは、会話の中で自分の言葉数が1つ2つ多くなっていたりする。自分のことを思って話されるアドバイスに、傷ついたりしてしまう。ご飯を食べた後に、デザートを食べたくなってしまう。落ち着いた音楽を聴くべきタイミングで、騒がしい音楽を選んでしまう。

自分のおかしさに気づく速度が速ければ速いほど、良い状態に戻るのも速くすることができる。傷口を深くすることなく済ませることができるし、その積み重ねによって、自分の中の余裕を獲得することができるようになる。遅ければ遅いほど、問題は深刻化してしまう。身体からのサインや出来事の変化を無視し続けることで、傷口は深くなるし、良い状態には戻りづらくなってしまう。ある程度を超えると、もう戻ることは難しくなってしまう。人生は海や川の流れの中にあるような一面もあるから、雪崩のようなもの、つまり気づいているのに流されていってしまうということも多々ある。どうあれ、速く立て直せれば直せるほどいいのは間違いない。

大変だなと感じるけれど、そうやって自分を省み続けることで、少しずつ成長していることは実感できる。成長を感じられることは歓びでもあるので、これを続けていこうと思う。道徳も倫理も政治も経済も苦手で、僕の場合は身体の声を聞き続けて生きていくしかない気がしている。



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