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第134回 パウロ・ヴァレンチン

#クラッキ列伝
#月刊ピンドラーマ  2020年12月号
#下薗昌記 (しもぞのまさき) 文

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 イギリスの高級紙オブザーバーが2004年、「死ぬまでに見るべき」スポーツイベントの1位に選出した競技をご存知だろうか。

 答えはスーペルクラシコ。いわずと知れたアルゼンチンの二大巨人、ボカ・ジュニオールズとリーベルプレートの激突である。

 狂気。興奮。熱狂。混沌……。そんな言葉の全てが陳腐に聞こえる一戦で、確かにその名を歴史に刻み込んだブラジル人がいる。

 男の名はパウロ・ヴァレンチン。勝負強いストライカーでもありながら、ピッチ外では破天荒な生き方でも知られた型破りのクラッキだった。

 1932年、リオデジャネイロ近郊の町、バーラ・ド・ピライーに生まれたパウロは、地元の小クラブでパウロの父もプレーしたことがあるセントラウでキャリアをスタートさせると1954年、名門アトレチコ・ミネイロに移籍。アトレチコ・ミネイロでも期待どおりの活躍を見せたパウロだが、ベロ・オリゾンテの生活ではのちに、TVグローボのテレノヴェーラでも放映される「イウダ・フラカン」のモデルとなるイウダ・マイアと出会い、恋に落ちるのである。イウダの職業は、いわゆる春を売る職業だった。

 アトレチコ・ミネイロからボタフォゴに移籍。いよいよブラジルサッカー界の中心地でプレーし始めたパウロだったが、夜の街を愛するパウロはリオデジャネイロで身を律することができず、そのポテンシャルを当初発揮しきれなかったが、のちにブラジル代表の監督も務めるジョアン・サウダーニャはこう評価するのだ。

「パウロは戦車のような選手だが、インテリジェンスも持っている」

 その慧眼はさすがだった。

 1948年以来、ボタフォゴが手にしていなかったリオデジャネイロ州選手権では1957年の優勝に貢献。1959年にはブエノスアイレスで行われた南米選手権でブラジル代表としてもプレーしたが、タンゴの国で見せたパウロのパフォーマンスは、アルゼンチン人も惹きつけたのだ。

 1960年、ボカからオファーを受けたパウロはアルゼンチンでのプレーを決意。そしてその傍らには恋人から妻に立場を変えたイウダも一緒だった。

 1963年のコパ・リベルタドーレスの決勝でサントスと対戦した際、王様ペレにさえ「ブラジルの猿」と今であれば大問題となる人種差別的なヤジを飛ばしたボケンセ(ボカサポーター)であるが、パウロは彼らの心をがっちり鷲掴みにするのだ。

 ヴァレンチンはスペイン語読みすればバレンティンだが、「ティン、ティン、ティン、ゴル・デ・バレンティン(ヴァレンチンのゴール)」なるコールは定番に。ポジショニングの良さと、抜け目のない動きで両足から放つシュートでゴールを量産したパウロだが、未だにスーペルクラシコでプレーしたボカの選手として最多ゴールの記録を持っているのだ。

 リーベルとの公式戦7試合で計10ゴール。親善試合では計3ゴールを奪ってきた。この数字はパレルモやテベス、マラドーナでさえなしえなかったものである。

 そして妻、イウダはボカのホームスタジアム、ボンボネーラの貴賓席で夫のプレーを見守った。

 1960年から1965年までの在籍中、2度タイトル獲得に貢献したパウロは1965年に母国のサンパウロに移籍。メキシコなどでもプレーした後、1968年にスパイクを脱いだ。

 ボカの下部組織で指導者を務めていたパウロだったが1984年、51歳でこの世を去ったが、不摂生な生活が原因とされる心臓麻痺が死因だったという。

 晩年は貧困に喘いだというパウロに寄り添った友人の一人は、スーペルクラシコでパウロに何度も苦汁を舐めさせられたはずのリーベルのGK、アマデオ・カリーゾだった。

 酒飲み仲間でもあったというカリーゾは「いいワインを手にしている時に、ボカだろうとリーベルだろうと関係ないさ」と笑ったがボカのサポーターにとっては永遠の英雄、一方、リーベルのサポーターにしてみれば、いつまでもにっくき仇である。

 スーペルクラシコの歴史を紐解く時、必ずパウロ・ヴァレンチンの名が思い出されるのである。


月刊ピンドラーマ2020年12月号
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