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ニウソン・ボルジェス クラッキ列伝 第137回 下薗昌記 月刊ピンドラーマ2021年3月号

#クラッキ列伝
#月刊ピンドラーマ  2021年3月号 HPはこちら
#下薗昌記 (しもぞのまさき) 文

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 2021年2月5日に行われたブラジル全国選手権の第34節でアトレチコ・パラナエンセはユニフォームの背中に一人の偉大な英雄の名を刻み込んでプレーした。

 インテルナシオナウをホームで迎え撃った選手たちが背負った名前は前日に天に召されたばかりの「ニウソン・ボルジェス(Nilson Borges)」。1960年代後半から70年代にかけてアトレチコ・パラナエンセで一時代を築いた名ウインガーだった。

 1941年、サンパウロ市内のボン・レチーロ区で生を受けたニウソンは、当時のサッカー選手としてはごく当たり前だったストリートサッカーでその技を磨いた。

 サッカーに自らの人生を賭けようとする大勢の少年とは異なり、プロサッカー選手になるつもりはなかったというニウソンだったが、父は当時の名門、ポルトゥゲーザで働いていたこともあり、運命に導かれるようにポルトゥゲーザで入団テストを受験。1959年にポルトゥゲーザでプロのキャリアをスタートさせるのだ。

 1958年のワールドカップ・スウェーデン大会でブラジルは初めて世界を制し、最初の黄金期に突入していたが古き良き時代のブラジルサッカーの象徴が、華麗なプレーを披露するポンタ、つまりウイングのポジションだった。

 ガリンシャやぺぺ、カニョテイロら王国のサッカー史に永遠にその名を刻む天才ウイングが綺羅星のごとく並んだ時代だったが、左利きだったニウソンはぺぺとカニョテイロを自らのお手本として技を磨き続けた。

「僕はカニョテイロから多くを学んだ。彼は素晴らしい選手だったね」

 ウイングだけでなくセンターフォワードとして勝負強さも見せたニウソンは1965年にベルギーのスタンダール・リエージュやポルトガルのスポルティング・リスボンなど名門でのプレーの機会を手にしかけるも、移籍金で合意に至らず、ブラジルでのプレーを余儀なくされたが、1968年にのちに心のクラブとなるアトレチコ・パラナエンセに加入することになる。

 1958年のパラナ州選手権制覇以来、遠ざかっていたタイトル獲得に向けて、豪華補強を行なっていたアトレチコ・パラナエンセ。

 ニウソンが加わった当時のチームは従来のチームのニックネーム「フラコン(ハリケーン)」にふさわしい豪華な顔ぶれが揃っていた。ジジャウマ・サントスやベリーニらワールドカップの優勝メンバーをチームメイトにしたニウソンは1970年のパラナ州選手権で優勝に貢献。

 テクニックに優れ、大一番での得点力も持ち合わせていたニウソンではあるが、現在のサッカー界とは異なり、暴力的なファウルもまかり通っていた当時、その足はDFから再三、削られ続けるのだ。

 笑顔が似合う大きな口から「ボカン(大きな口)」の愛称でも知られたニウソンだが、度重なる悪質なファウルにその顔を歪め、そして33歳にしてスパイクを脱ぐことになる。陽気な男も負傷には勝てなかったのだ。

 しかし、ニウソンとアトレチコ・パラナエンセの「結婚生活」は現役引退後も変わりはなかった。下部組織の監督やスカウト、トップチームのヘッドコーチも歴任し、引退後は一貫してクラブの発展に身を尽くしたニウソン。アトレチコ・パラナエンセのトレーニングセンター内にある小さなスタジアムの名前に「ニウソン・ボルジェス」の名を与えようと、一部のサポーターがネット署名を始めたのは、その存在の大きさ故、だった。

 現役を退いても変わることがなかったニウソンのクラブ愛。大きな口を開けて見せる笑顔と、華麗なプレーは永遠にクリチーバ市内で語り継がれていく。


月刊ピンドラーマ2021年3月号
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