配慮されたいというよりは、成果をあげさせてほしい

各自の残業時間のグラフを見る機会があった。
30個くらい並ぶ棒で作られた棒グラフで、私の名前のところだけ棒がない。
短時間勤務歴何年になるだろう、もうずいぶん長いこと私の残業時間の棒がない。ないどころか、マイナスだから。棒グラフは1日7.75時間からはみ出した分の残業時間だ。
私も自身の短時間勤務1日6.15時間を越えた分は残業できるが、これは正しくは残業とは呼ばないし棒グラフには表示されない。

こうして30個くらい並べられてしまうと明確に異質に見える。目立っている。
そうかそんなに仕事していないか…そしてその割には態度が大きく、何やっているかわからないところがある。だろうな。

久々にフロアの違うところにいる女性同僚と雑談しこんなことを言われた。
「たまに遅くまでいませんか?やりすぎですよ。あまりやりすぎないように。私は時短の頃に時短以上に残業したことないです」
「え、ないですか?!」「ないです。無理なものは無理!で突き返します」

この強さが彼女の強さで、それはそれでとても素敵である。すごいなー。

しかしながら、仕事というのはコミットすればするほど面白いという面もある。
一方で、家庭や育児についても、コミットしなければどんどんつまらない労働になってしまう。やらなければならないことを楽しむには、コミットすることが大切である。

育休復帰後に仕事のモチベーションが落ちるという現象があるとして、それは女性本人の問題とされてきた面がある。しかしそれは体力的に精神的にコミットできないからというところが大きく、本人だけの問題というよりは、社会的、環境的な要因も大きい。

「何をどれくらいやりたいか」はもちろん個人個人それぞれである。だが実はそこに自由度は高くなく、社会的、環境的な背景が暗に「何をどれくらいやるべきか」という圧力をかけてくる。結果として「これをどれくらいやりたい」と本人が自由に言うことはほとんど不可能になっている。

そもそも「やりたい」と「やるべき」は明確に分けられないのではないか。特に仕事と育児はあまりにも内容が幅広く、また生活への影響が大きく、ステークホルダーが絡まりすぎて、「やりたい」「やるべき」が分けにくいカテゴリである。

自由であるようで自由ではない。このことに、一部の当事者たちは感覚的に気づいている。
それを、当事者以外の気付いていない人が「どうしたいのか?」「自分ではっきり決めろ」と詰め寄るのは暴力的である。

ときどき聞こえてくる事例がある。
育休復帰後に仕事と育児の両立に悩み上司に相談したところ、
「いまは仕事か育児か割り切ってはどうか」
と返ってくる、という事例だ。
その返答で、当事者はますますモヤモヤしている。そしてもう当事者がこの上司に相談することはない。

一見、仕事 or 育児と並立に並べているように見えて、実はこの選択肢は育児しか選べないことに、人は気付けるだろうか。
上司は部下の仕事を調整し配慮することはできても、育児を調整することはできない。だからこれは、対等な二択ではない。選択肢ですらない。
そしてモヤモヤを抱えた当事者は、実は仕事がしたい。院卒で普通に男女問わずで過ごしてきたのに、産後はすっかり別物の扱いになり、なんならそこらへんの出来の悪い男よりも働けなくなってしまう現実にもがいている。そういう層が、潜在的には多くなってきている。

もちろん、仕事にコミットしたくない層もいる。しかし、仕事にコミットしたくてもできないこの層のこのモヤモヤを、まずはどうにかして理解してもらいたい。

もちろん配慮はありがたい。でもそのフェーズは過ぎた。
たぶん、求められているのはその次のフェーズ。

育児も責任持ってガンガンやる短時間勤務で、仕事に100%コミットできないながらも、それでも成果をあげさせてほしい。

…これだけのことが、案外、伝えられないものである。

#コラム #テキスト #女性 #WM

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