好ましい分人が作られる他者

先日、インターンシップに会社に来ている女子学生さんを誘って2人でお茶を飲んだ。といっても本当に飲んだのはジュースだけれども。

彼女の研究室での研究の概要発表を聞いた直後のことだ。
内容についてはさっぱり理解ができなかったけれども、発表での彼女の話しぶり、言葉の選び方、振る舞いに、私はすっかり好感を抱いていた。例えば「この研究の素敵なところは、」という言い回し。そうそうこれこれ、と思った。

彼女が飲み物を片手に、そこにあった雑誌を手に取りパラパラとめくるのを覗き込む。
「スピントロニクスだって。近いやつ?」
「はい、大枠では」

インターン先や就職先でどんな会社を検討しているのか、世間話として聞いたところ、
「まぁ物理ができればなんでも良いんですけどね」
と微笑んだ。
「物理ができればなんでも良い」
復唱してみる。
素敵なセリフだ。
「あ、でも、ずっと微小なゴミに悩まされていて嫌になってきたんですよね、やめたほうがいいかな…」
「オーダーの問題か」
「なので重工系もインターン応募しようとしたんですけど落選して」
「オーダーいきなり大きすぎない?!」
最終的には彼女はこう締めくくった。
「まぁ何でもやってみればおもしろいですよね」


最近、平野啓一郎の「私とは何か 「個人」から「分人」へ」を読んで、分人主義に肩入れしている。
この人といる時にはこの人向きの分人、別の人といる時には別の人の分人、というように、1人の中にはいくつもの分人があって、その構成比率で人格が形成されている、というような考えである。分人は、意識的に作られたペルソナというよりは、他者との関係によって相互作用的に自然に作られるものである。逆に言うと他者なしでは作り得ないものである。

私の中には複数の分人が存在していて、対応する他者によって別の分人が表に顔を出す。
ある人といるときはおとなしく控えめな私であるし、別の人といるときはああ言えばこう言う生意気な私である。

物理であればなんでも良いという女子学生さんと話しているときの私は、いつものごとくたいして快活でもなければ饒舌でもないものの、しかしながら、物理というものがより親密に感じられ、まるで世界にはおもしろいものが満ちているかのように思える私だった。

自分の中の分人構成比において、自分の好きな分人の比率を高めたい。それは自分のためでもあるし、おそらく世界にとってもより良いはずである。好ましい分人が別の分人にも融合し影響を与え、結果として世界は微小ながらもより良くなる。

インターンシップは、会社の人と直接話したりしながら、こういう雰囲気の、こういう人のいる会社なら働きたい、などと思うものであろう。
しかし私は逆に先輩社員でありながら、この女子学生さんのような女性がいる会社で働きたいと思った。私の中により良い分人が作られると感じたからだ。逆インターンシップ。

そしてこうも思った。
他者にとって、私は好ましい分人を作ることのできる他者なのだろうか。
女子学生さんと話していて思い出したのだが、この人といると少し世界がより良く見える、というタイプの人は時々いる。それは相性でもあるのだが、ある程度は絶対値でもある。

人は子ども時代には親による分人の比率が高い。成長するに従って、先生との分人、友達との分人、作家との分人、漫画との分人、ネットでの分人…と広がっていく。
いままだ小さな子どもたちには特に、私はより良い分人を作れる他者でありたい。過去に私と作った分人がいつか広がっていく世界での足がかりになるように。それが具体的にどんな分人なのかはよくわからないけれども。

同著では、分人における「他者」に、実在する周辺人物だけでなく、書籍を含めている。これがまたとても好ましい。

私はボードレールの詩を読んだり、森鴎外の小説を読んだりしている時の自分は嫌いじゃなかった。人生について、深く考えられたし、美しい言葉に導かれて、自分がより広い世界と繋がっているように感じられた。そこが、自分を肯定するための入口だった。

だから分人はコミュニケーションのハウツーの話ではない。そこにあるだけで影響を与えられ作られるものだ。

もしも他者にとって私がそういう詩や小説のような存在であれば、こんなに素晴らしいことはないだろう。

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