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2018広島大学/国語/第一問/解答解説

【2018広島大学/国語/第一問/解答解説】

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2018千葉大国語/第一問↓↓(同出典)
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=932258313631856&id=156247554566273

2016東大国語/第一問↓↓#反知性主義
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=852673428257012&id=156247554566273

〈本文理解〉
出典は菅香子『共同体のかたち』(2017)。同年の千葉大学第一問も同じ出典の別箇所からの出題であった。
①②段落。絵画とは「開かれた窓」である。アルベルティは、「絵画が「開かれた窓」を通して世界を透明に表象するものである」(傍線部(1))と考えたのだ。アルベルティは、ひとつの表象の仕組みとして遠近法(透視図法)の理論を確立させた。遠近法、そして「画家はひたすら見えるものを描くことにたずさわっていればいい」という考えは、絵画が死や不在を予期し、それを含み込んでいるものだという考え方とは一見矛盾するように見える。こうした矛盾が生じるのはなぜか。それは、絵画が死や不在と切り離せない一方で、それが見えるものでしかないからだ。
③④段落。絵画は、「見えるものと見えないもの、表象されるものと表象されないもの、現前と不在とのせめぎ合い」(傍線部(2))のなかにある。絵画は、わたしたちの目に見える状態として、何らかの構造としてしかわたしたちに差し向けられないにもかかわらず、出来事でもある。描くという行為も、絵画を見るという行為も、必然的に出来事に属する。絵画は構造と出来事の狭間にあり、構造と出来事の境界から現れたものであると言うことができる。
⑤⑥段落。例えば、絵画が不可視と可視の媒介であるといっても、不可視のものはどのようにしても目に見えない。表現しようもないものを表現しようとするとき、絵画が表現するのは、その表現が不可能であるということのみになるのかもしれない。しかし「表現がそのように「不可能なもの」であったとしても、それは表現できないということではない」(傍線部(3))。そこには必ず何らかの痕跡、絵画を描いたという出来事の痕跡が残る。そこには表象の意志と表象の挫折がある。(表象の領域に引きずり出された表象不可能性についての表現であったり、…)。それこそが、絵画として描き出されたものなのだ。ということは、構造のなかに出来事が入り込むというそのこと自体が絵画として現れるということになる。
⑦⑧段落。絵画における出来事とは何だろうか。それは、描くという行為から見れば、何らかのかたちを取った「個」として出現することである。この出来事が、「個」として「存在するもの」が出現する源である「存在」そのものを喚起させる。現勢化した「個」の出現の源に、潜勢的なものがある。そのあり方を別様に照らし出すのが、ゾーエーとビオスの関係である。ギリシア語のゾーエーとビオスはどちらも「生」を表す言葉である。ゾーエーは人が生きて経験する生や「生の原理」であり、ビオスは、個として形作られた、生の対他的・外的な「現れ」としての生である。ゾーエーは不可視の生であり、ビオスは個体化され可視化された生である。ゾーエーは連続した生を指しているのに対して、限定的に個別性が現れてくるのがビオスである。
⑨⑩段落。「このようなゾーエーとビオスのあり方」(傍線部(4))を、絵画のあり方に照らし合わせて考えてみよう。絵画が目に見える「存在するもの」の出現をとらえる出来事だとしたら、それは、ビオスという個別の生がゾーエーを引きずりつつ現れ出る瞬間に似ていないだろうか。絵画は何らかのかたちを取るので、個別性の現れである。だが、しかし、それと同時に、個別性が現れる以前の状態をも示唆している。そしてまた、ゾーエーとビオスをあわせ持つものとして成り立っている人間の生のフィールドは、それを受け取る人に向けて、すなわち他者に向けて開かれた基盤である。「人間の生」(波線部A)は、ゾーエーとビオスの両方を保ち続けながら、他者に向けられている。そのあり方も、「絵画のあり方」(波線部B)と似ている。絵画も同じように、つねに見えるものと見えないものとを同時にさらしながら、それを見る者に、すなわち他者に向けられている。
⑪⑫段落。人間の生が他者へと向けられていて、他者によって受けとめられるものであるということ、それがわたしたちの共同性の契機である。現代において絵画を「見ること」は、もはや権力の問題ではなく、共同性の問題である。絵画は「見られる」ものであり、それを見る人に「見る」ことを要求する。そして、そのようにして絵画を見ることは、わたしたちが何ものかとして呼び出されるきっかけとなる。このことは「私」と「他者」との関係と同じである。構造と出来事とのあいだにある絵画と、ゾーエー、ビオスからなる人間の生のあり方が類似しているものだと考えられるとするならば、「絵画とは、実は、新しい来るべき共同体を模索する作業である」(傍線部(5))ということができるかもしれない。

〈設問解説〉
問一 (漢字)
a習慣 b挫折 c喚起 d汲 e類似

問二 (抜き出し問題)
(1) 遠近法 (別解)透視図法
(2) 絵画が死や不在を予期し、それを含んでいるものだとする考え方

問三 (抜き出し問題)
・構造と出来事の狭間 ・構造と出来事の境界 ・不可視と可視の媒介

問四 「表現がそのように「不可能なもの」であったとしても、それは何も表現できないということではない」(傍線部(3))とある。こう言えるのはなぜか。80字以内で答えよ。

理由説明問題。表現が「どのように」不可能か(A)を確認した上で、それは何も表現できないというわけでは「ない」理由、つまり「何かが表現できる」(B)ということを示せばよい(ないある変換)。Aについては前⑤段落から、「直接的に存在を明示するのではなく」という記述を拾う。その上で、Bについては⑥⑦段落より、「描いたという出来事の痕跡が残る/表象の意志と挫折/かたちを取った「個」の源である「存在」そのものを喚起/現勢化した「個」の出現の源に潜勢的なもの」という内容を拾う。これらからBは、「(存在自体を明示はできないが)それを個別に表象しようとする試みを重ねることで/その根源に潜勢する「存在」を喚起(暗示)することができる」とまとめることができる。

<GV解答例>
絵画は存在自体を明示的に表現することはできないが、それを個別に表象しようとする試みを重ねることにより、その根源に潜伏する不可視の存在を暗示することができるから。(80)

<参考 S台解答例>
出来事を絵画に直接表現することはできないが、絵画自体が可視的な構造でありながら出来事でもあるかぎり、絵画表現には、自ずと出来事の痕跡が暗示されてしまうから。(78)

<参考 K塾解答例>
表現しようのない不可視なものを表現しようとするとき、直接的にはその存在を明示できないが、少なくとも絵画を描いたという出来事が痕跡として表現されるから。(75)

問五 「このようなゾーエーとビオスのあり方」(傍線部(4))とはどのようなものか。「ゾーエー」と「ビオス」の違いが分かるように説明せよ。

内容説明問題。前⑧段落から、それぞれの要素を拾うことは容易。「ゾ/生の原理/不可視/連続した生」、「ビ/対他的な現れ/可視/個別の生」となる。これに加えて⑨段落から、ゾーエーとビオスの関係性についての記述を参照する。すなわち、「ビオスという個別の生がゾーエーを引きずりつつ現れ出る」という記述を参照する。ここから、ゾーエーについていえば、「ビオスを根源で支え産出する/ビオスによって示唆される」となり、ビオスについていえば、「(連続する)ゾーエーから分節される」となる。
さらにビオスについての説明「対他的な現れ」というのが分かりにくいので、人間の生と絵画体験の共通性を踏まえて⑩段落以降を参照し(例えば「絵画を見ることは、わたしたちが何ものかとして呼び出される/このことは「私」と「他者」との関係と同じ」(⑫))、「対面する他者との交渉により(根源のゾーエーから)引き出されて現れる」とする。もう一つ、「原理」と「現れ」という記述を「本質」と「現象」という対義語に言い換え、対比をより明確にした。

<GV解答例>
「ゾーエー」それ自体不可視だが、個別の生を通して示唆され経験される、ビオスを根源で支え産出する連続した生の本質。(50)
「ビオス」 対面する他者との交渉により引き出され可視化される、基盤にあるゾーエーから分節された個別的な生の現象。(50)

<参考 S台解答例>
「ゾーエー」人が生きて経験する生や生の原理のことで、原理であるがゆえに不可視の生であり、個別のものではない、個別性が現れる以前の連続した潜勢的生。(67)
「ビオス」 個として形作られ、個体化された生の対他的・外的な現れであり、生の現れであるがゆえに個体化され可視化された生であり、限定的で個別的な現勢的生。(70)

<参考 K塾解答例>
「ゾーエー」個別的なものではなく連続した生命であり、人が生きて経験する生や「生の原理」であるため不可視なもの。(49)
「ビオス」 個として形作られた、生の対他的・外的なものの「現れ」としての生であるため個体化され可視化されるものであり、限定的に個別性が現れてくるもの。(69)

問六 「人間の生」(波線部A)と「絵画のあり方」(波線部B)との共通点を説明せよ。

内容説明問題。まずは同⑩段落より、「ゾーエーとビオスの両方を(A1)/見えるものと見えないものとを同時に(B1)/さらしながら/他者に向けられている」という要素を拾う。また⑨段落より、「絵画が目に見える「存在するもの」の出現を捉える出来事(B2)/(それは)ビオスという個別の生がゾーエーを引きずりつつ現れ出る(A2)(と似ている)」という要素を拾う。B2の要素がA2に対して不足しているので、⑦段落に戻って「「存在するもの」が出現する源である「存在」そのものを喚起させる(B´2)」を拾う。以上より、「両方とも/他者に自己を開き/その可視的・個別的な側面を引き渡しながら/その根源の本質的な面を示唆する点(A∩B)」とまとめられる。

<GV解答例>
両者とも、対面する他者に自己を開き、その可視的・個別的側面を引き渡しながら、その根源にある自己の本質的側面を示唆する点。(60)

<参考 S台解答例>
現勢化した個別性と潜勢的な連続性という対立する性質を同時に保持しており、それを受け取る他者に向けるという点で共同性を基盤に持つこと。(66)

<参考 K塾解答例>
個別的なものとして現前し可視化されるものと、原理的なものとして潜在する不可視なものとを保ち、それが他者に向けられているという点。(64)

問七 「絵画とは、実は、新しい来るべき共同体を模索する作業である」(傍線部(5))とある。この作業はどういうものか。次の語をすべて用いて100字以内で説明せよ。(「私」・「他者」・見る・関係性)

内容説明問題。傍線部の位置が最終⑫段落の内容を承けてその最終文にあるから、⑫段落の内容を参照して傍線部自体の説明につなげる。すなわち、絵画を「見る」ことの共同性について述べ、それが「私」と「他者」との関係についても共通であることに言及し、それゆえ、絵画が来るべき共同体を模索する作業である、という形で述べるとよい。
まず「見る」ことの共同性だが、「見ることは、わたしたちが何ものかとして呼び出されるきっかけとなる(A)」という記述に着目する。これと合わせて、これまでの設問でも考察してきたように、絵画とは「存在するもの」によりその根源の「存在」を喚起させるものであり(⑦)、見る者に向けて(⑩)、個別性(存在そのもの)を現すものである(⑨)(B)。ならば、絵画を「見る」という体験は、まさに一方的な「権力の問題ではなく(⑫)」、見る者が「絵画」を規定しながら(B)、かつ、見られる絵画が見る者を規定する(A)、相互性(つまり共同性)の中にある。これは、「私(他者)」と「他者(私)」にもあてはまるものである。つまり、絵画におけるこうした相互的な交渉が、新たな関係性を構築していく作業、となるのである(傍線部自体)。

<GV解答例>
絵画を見ることは、「私」が「他者」と関係を築くのと同じく、絵画を個別的に規定しながら、逆に見るという出来事により自己も規定されることを意味し、そうした相互的な交渉を通し新たな関係性を構築していく作業。(100)

<参考 S台解答例>
見る者という「他者」に受容されることではじめて成立する、人間の生のあり方と類比的な絵画のあり方を通して、権力的ではない、「他者」とともにある「私」という自他の相互的関係性を創出していこうとする作業。(99)

<参考 K塾解答例>
「私」が「他者」に受け止められることにによって「私」として成り立つように、絵画を描くことは、もはや権力的なものではなくなり、見る人にそれを見ることを要求するという新たな関係性を生み出そうとする作業。(98)

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