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至高の現代文19/14東大 第一問(評論)

【2014東京大学/国語/第一問/解答解説】  

〈はじめに〉
受験生や時間のある方は、一度本文をお読みになり、それぞれのレベルで設問を考えた上で、以下の解説を参考にして下さい。受験に関わらず、東大の問題は読みごたえがあり、設問に挑むことで理解が深まる仕掛けになっています。
適切な解答は、適切な読解に即して得ることができます。読解においては、表現に着目して重要箇所を抽出すること(ミクロ読み)、形式段落間の関係に着目して文章構造を捉えること(マクロ読み)、が大切になります。  

〈本文理解〉
出典は藤山直樹『落語の国の精神分析』。前書きに「精神分析家が自身の仕事と落語を比較して述べたもの」とある。
①段落。いざ仕事をしているときの落語家と分析家に共通するのは、まず圧倒的な孤独である。落語家は金を払って「楽しませてもらおう」とわざわざやってくる客に対して、たった一人で対峙する。落語家には共演者もいないし、みんな同じ古典の根多を話しているので作家のせいにもできず、演出家もいない。すべて自分で引き受けるしかない。しかも、反応はほとんどその場の笑いでキャッチできる。残酷なまでに結果が演者自身にはねかえってくる。その結果に孤独に向き合い、根多を話し切るしかない。
②段落。分析家も毎日自分を訪れる患者の期待にひとりで対するしかない。そこには誰もおらず、患者と分析家だけである。そこで自分の人生の本質的な改善を目指して週何回も金を払って訪れる患者と向き合うのである。分析料金はあまり安くない。患者たちは普通もしくは普通以上に稼いでいる。社会では一人前かそれ以上に機能しているのだが、パーソナルな人生に深い苦悩を抱えている人たちである。何の成果ももたらさないセッションも少なくない。それでもそこに50分座り続けるしかない。
③段落。多くの観衆の前でたくさんの期待の視線にさらされる落語家の孤独。たったひとりの患者の前でその人生を賭けた期待にさらされる分析家の孤独。いずれにせよ、彼らは自分をゆすぶるほど大きなものの前でたったひとりで事態に向き合い、そこを生き残り、なお何らかの成果を生み出すことが要求されている。それに失敗することは、自分の人生が微妙に、しかし確実に脅かされることを意味する。客が来なくなる。患者が来なくなる。
④段落。おそらく「このこころを凍らせるような孤独」(傍線部ア)のなかで満足な仕事ができるためには、ある文化を内在化して、それにしっかりと抱えられる必要がある。しかし、そうした文化がそのまま通用することは、落語でも精神分析でもありえない。観客と患者という他者を相手にしているからだ。  

⑤段落。演劇などのパフォーミングアートはすべて、「演じている自分」と「見る自分」の分裂が存在する。落語、特に古典落語においては、習い覚えた根多の様式を踏まえて演りながら、いま目の前にいる観客の視点から見る作業を不断に繰り返す必要がある。昨日大いに観客を笑わせたくすぐりが今日受けるとは限らない。彼はいったん今日の観客になって、演じる自分を見る必要がある。完全に異質な自分と自分の対話が必要なのである。
⑥段落。しかも落語という話芸には、他のパフォーミングアートにはない、さらに異なった次元の分裂の契機がはらまれている。それは落語が直接話法の話芸であることによる。端的に言って、落語はひとり芝居である。演者は根多のなかの人物に瞬間瞬間に同一化する。根多に登場する人物たちは、おたがいにぼけたり、つっこんだりし合っている。そうしたことが成立するには、おたがいがおたがいの意図を知らない複数の他者としてその人物たちがそこに現れなければならない。落語が生き生きと観客に体験されるためには、この他者性を演者が徹底的に維持することが必要である。「落語家の自己はたがいに他者性を帯びた何人もの他者たちによって占められ、分裂する」(傍線部イ)。
⑦段落。おそらく落語という話芸のユニークさは、こうした分裂のあり方にある。もっと言えば、そうした分裂を楽しんで演じている落語家を見る楽しみが、落語というものを観る喜びの中核にあるのだと思う。そして、人間が本質的に分裂していることこそ、精神分析の基本的想定である。自己のなかに自律的に作動する複数の自己があって、それらの対話と交流のなかに「ひとまとまり「私」というある種の錯覚」(傍線部ウ)が生成される。それが精神分析の基本的な理解のひとつである。落語を観る観客はそうした自分自身の本来的な分裂を、生き生きとした形で外から眺めて楽しむことができるのである。分裂しながらも、ひとりの落語家として生きている人間を見ることに、何か希望のようなものを体験するのである。  

⑧段落。「精神分析家の仕事も実は分裂に彩られている」(傍線部エ)。分析家は患者の一部分になることを通じて患者を理解する。(具体例:こころに迫害する誰かとそれにおびえる自分という世界をもつ患者に対して、分析家はときに迫害者になり、ときに無力な自己になる)。こうして患者のこころの世界が精神分析状況のなかに具体的な姿を現し、分析家は患者の自己の複数の部分になってしまい、その自己は分裂する。
⑨段落。もちろん、自己でないものになるだけでは精神分析の仕事はできない。分析家はいつかは、分析家自身の視点から事態を眺め、そうした患者の世界を理解することができなければならない。そうした理解の結果、分析家は何かを伝える。その言葉、物語、解釈に患者は癒される部分があるが、おそらくそれだけではない。分裂から一瞬立ち直って自分を別の視点から見ることができる「生きた人間としての分析家自身のあり方こそが、患者に希望を与えてもいる」(傍線部オ)のだろう。自分はこころのなかの誰かに無自覚にふりまわされ、突き動かされていなくてもいいのかもしれない。ひとりのパーソナルな欲望と思考をもつひとりの人間、自律的な存在でありうるかもしれないのだ。  

〈設問解説〉
問一 「このこころを凍らせるような孤独」(傍線部ア)とはどういうことか、説明せよ。(60字程度)  

内容説明問題。「この…孤独」の具体化と比喩表現「こころを凍らせる」を一般的な表現に直すことが求められる。その上で、ここでは落語家(X)と分析家(Y)の共通する孤独の内実について聞かれていることに注意する。共通性(類比)を説明する問題は、対比と同様、一括型「XもYも/Aである」で述べるか、分離型「Xは(x1x2x3…)であり/Yは(y1y2y3…)である」で述べる。
この場合、③段落の「いずれにせよ」に着目し、「一括型」で処理する。ならば、「この…孤独」が指す内容として、「いずれにせよ」以下の「彼は自分をゆすぶるほどの大きなものの前でたったひとりで事態に向き合い/そこを生き残り/何らかの成果を生み出すことが要求」を一般的な表現に言い換え、「こころを凍らせる」のニュアンスを足せばよい(→「おののく」とした)。
以上で解答の核はできるが、同一意味段落にある④段落の傍線以後の記述も検討する必要がある。まず「文化の内在化」については、「孤独」に対する構えだから、傍線自体の説明には必要ない。ただ、その後の「観客と患者という他者」という要素は繰り込みたい。「他者性」=「自己との異質性」(この説明は問二の解答に譲る)は「孤独」を深める根本要素であるので。  

<GV解答例>
落語家も分析家も、一人の存在からすると過剰な他者の期待を、その責任の重さにおののきながら、人生を賭けて背負うように強いられること。(65字)  

<参考 S台解答例>
落語家も分析家も、文化を内在化し自己の存在を賭けて、相手の期待に応えようとただ一人で他者と対峙するしかないということ。(59字)  

<参考 K塾解答例>
反応の予想できない他者の目にさらされ、その期待にこたえる責任をただ一人で引き受けることが自己の存在理由となっているということ。(63字)  

問二 「落語家の自己はたがいに他者性を帯びた何人もの他者たちによって占められ、分裂する」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。(60字程度)  

内容説明問題。「落語家の自己は/たがいに他者性を帯びた(A)/何人もの他者たちによって占められ(B)/分裂する」に分けて言い換える。まずB「何人もの他者」とは? ⑤段落より、「演者(自身)」と「観客」、それも一人ひとりが個別の「観客」に分裂し(分裂1)、「観客」の視点で「演者(自身)」を見る。この「観客」は「完全に異質な(もう一人の)自分」という意味で「他者性」を帯びる(A)。
それを前提とした上で(⑥段落頭の「しかも」と「さらに異なった次元の分裂の契機」に着目)、⑥段落より、演者は「根多のなかの人物に瞬間瞬間に同一化」する(分裂2)。それら登場人物たちは「おたがいの意図を知らない」という意味で「他者性」を帯びている(A)。以上をまとめる。  

<GV解答例>
落語家は、自己と異質な個々の観客の視点に立った上で、互いに意図を知らない登場人物たちに入れ替わりながら演じる必要があるということ。(65字)  

<参考 S台解答例>
落語家は演じる自分を観客という他者の視点から対象化した上で、互いに自律した複数の他者の生きた対話を演じるということ。(58字)   

<参考 K塾解答例>
臨場感をもって根多を演じる落語家は、語り手としての自己を消去し、互いに意図を知らない登場人物の各々にそのつど成りきって生きるということ。(68字)  

問三 「ひとまとまりの「私」というある種の錯覚」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。(60字程度)  

内容説明問題。問四までの中で最も難度が高い。「錯覚」という名詞を「動きのある表現」に直して説明するとよい。「錯覚」とは、一般に「事実に沿わないものの見方をすること」だから、基準となる事実性を指摘する。その事実性とは「人間が本質的に分裂していること」である。これを傍線直前で「自己のなかに自律的に作動する複数の自己があって」と言い換え、「それらの対話と交流のなかに/(傍線部ウ)/が生成される」と続く。
この理解から「本質的に分裂している複数の自己が、自律的に対話と交流を行った結果、ひとまとまりの「私」という虚構が生まれる」となるが、まだ浅い。「…対話と交流を行った結果、…生まれる」このメカニズムを説明しないといけないのではいか?
そもそも、傍線部を含むパート(⑦段落「そして」以降の3文)は「落語の楽しみは、演者の「分裂」を見ること」という内容に続くものだった。  そして「人間の本質的な分裂性」について指摘した後で、再び落語の話に戻り、「落語を観る観客はそうした自分自身の本来的な分裂を、…外から眺め…何か希望のようなものを体験する」  と述べる。
こうたどると「本質的分裂」→「外から眺める(対象化)」→「統合=希望」というつながりが見つかるのではないか。もちろんここでは、この「落語の統合メカニズム」と「分裂する自己の統合メカニズム」との相似性が意識されているはずだ。
それで先ほどのメカニズムを「…対話と交流を行う事態を対象化する存在として、統合的な私という仮構が現象する」と説明した。なお、「錯覚」のニュアンスを「仮構」「現象」という言葉で表現したが、特に「本質」の対義語として「現象」という言葉を使えるようにしておいたら良いだろう。  

<GV解答例>
本質的に分裂している複数の自己が、自律的に対話と交流を重ねる事態を対象化する存在として、統合的な私という仮構が現象するということ。(65字)  

<参考 S台解答例>
人間は、本質的に分裂した異質な自己の関わり合う自らの存在を、個としての統合性をもつ主体と見なして生きているということ。(59字)  

<参考 K塾解答例>
人間は自律的に作動する複数の自己に分裂した存在だが、それらの関わり合いの総体を、統一性をもつ人格として感じることができるということ。(66字)  

問四 「精神分析家の仕事も実は分裂に彩られている」(傍線部エ)とはどういうことか、説明せよ。(60字程度)  

内容説明問題。「分析家の分裂性」についての説明が求められる。⑧段落の「患者の分裂を自己の内面に写し、分析家自身も分裂する」ということの理解はもちろん、⑨段落の「その自己の分裂状況を分析家として対象化する」という側面も、分裂の一側面として加えなければならない。というのも、本問の「分析家の分裂性」は、問二における「落語家の分裂性」つまり「対象化→分裂」を逆にたどる(「分裂→対象化」)ものであり、問二で「対象化」の側面も分裂の一側面として加えたからである。
ここまでは標準的。差がつくだろうと考えられるのは、傍線部の「も実は」という表現に対する配慮だろう。この内「も」については、前段までの「落語家」と「分析家」を並列にしているのは明らかで、自明としておく。しかし「実は」は自明としてはならない、つまり正しい理解を解答に盛り込む必要がある。
「実は」という表現は、「常識などにより見えにくくなっている真実性」を明らかにするときに使うものだろう。ここでの「普通」は「自己分裂に悩む患者に対処する分析家」である。しかし「実は」その分析家も「分裂」するのである。こうした理解を表現に込めたい。  

<GV解答例>
自己の統合に悩む患者に向き合う分析家も、患者の複数の人格に同一化し分裂をたどり、それを対象化することで患者理解を試みるということ。(65字)  

<参考 S台解答例>
分析家が患者の世界を理解し助言するには、患者の分裂した複数の自己に同化し自らも分裂を体験するしかないということ。(56字)  

<参考 K塾解答例>
分析家が患者を理解するさいには、患者の分裂した複数の部分に成りきりつつも、そうした事態を分析家自身の視点で把握しているということ。(65字)  

問五 「生きた人間としての分析家自身のあり方こそが、患者に希望を与えてもいる」(傍線部オ)とあるが、なぜそういえるのか、落語家との共通性にふれながら100字以上120字以内で説明せよ。  

「理由説明型」要約問題。基本的な手順は以下の通り。
1⃣ 傍線部自体の端的な理由をまとめる。(解答の足場)
2⃣ 「足場」につながる必要な論旨を取捨し、構文を決定する。(アウトライン)
3⃣ 必要な小要素を全文からピックし、アウトラインを具体化する。(ディテール)  

1⃣ 「生きた人間としての分析家自身のあり方」をS(始点)、「患者に希望を与える」をG(終点)とし、それをつなぐ理由Rを探す。Sは傍線前の部分を加えて言い換える必要がある。そこで、問四での理解を加えて「患者の分裂を引き受けた上で対象化してみせる分析家の姿勢」(S+)とする。
なぜ「希望」につながるのか? 最終行より「(分裂に悩む患者に)ひとりの自律した人間と思わせる」からである。どのように? 問三の理解より、分析家の「対象化」の試みが「統合の可能性」を見せてくれるからである。
ここまでをまとめて「S+こそが、分裂に悩む患者に、分裂を統合する見方(視座)をもたらすから」としておく。
2⃣ アウトラインについては、出題者のヒントに従う。つまり「落語家(X)との共通性」にふれる。ならば、類比の問いとなり、問一で検討した「分離型」の構文を使う。スペースに余裕があるならば、基本的に「分離型」の方が両者(X/Y)のニュアンスの違いも表現できて有利である。
「(x1)の観客に/(x2→x3)する落語家と同じく//(y1)の患者に/(y2→y3)する分析家こそが/分裂を統合する視座をもたらすから」という構文に定める。※(x2→x3),(y2→y3)は、(分裂→統合)というベクトルになる。
3⃣ まず①②③④段落から「観客、患者の過度の期待」(落語家、分析家の圧倒的孤独)という共通性を抽出。⑤⑥⑦段落からは「落語家の分裂」つまり落語家が「複数の登場人物に入れ替わりながら」演じること、それが観客に「一人の人間による、まとまった一つの世界」として示されることを指摘する。⑧⑨段落は既に考慮した。
最後に⑦段落の「人間存在の本質的(本来的)分裂性」を加える。だからこそ、落語家と分析家の「分裂を引き受け、それに統合をもたらす」あり方が、人々に「希望」をもたらすのである。  

<GV解答例>
様々な期待をかける観衆に、複数の人格を行き来しながら一つの世界を示す落語家と同じく、人生の本質的な改善を期する患者に、その分裂した人格の重みを引き受けた上で対象化してみせる分析家の姿勢こそ、人間の本来的な分裂性を統合する視座をもたらすから。(120字)  

<参考 S台解答例>
精神分析家は落語家と同様に、文化を内在化してただ一人で他者と対峙し、自己分裂する自分を他者の視点から対象化して語る存在であり、分裂した自己に苦しむ患者は、分裂してもなお分析家として仕事を行う姿に、自律的に生きる回復への可能性を感じとるから。(120字)  

<参考 K塾解答例>
落語家が、一人の人が様々な人物に分裂しているさまを見せることで観客を楽しませるように、分析家は、分裂した自己に苦しむ患者に対して、患者の分裂を体現しつつそれを見渡す視点を持つ生き方を一人で引き受け、そのさまを患者自身の可能性として示すから。(120字)  

問六(漢字)
a.稼  b.慰  c.脅  d.情緒  f.契機  

〈設問着眼点まとめ〉
一.類比→一括型/「凍らせる」の一般表現化。
二.「分裂」の二段階/「他者性」の具体化。
三.「錯覚」の動詞化/相似性の利用。
四.相似性の利用/「実は」の具体化。
五.SG式/類比→分離型。


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