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転んだときに必要なのは、正しい言葉じゃなくて、思いやりの手だ。

こどものころはよく、走って転んで、傷の痛みに泣きながら帰ることもあった。転ぶとわかっているのに、なぜ無謀にも走りたがるのか。正直いまだによくわからない。

でもあのころはなぜか、無邪気にかけまわっていた。何回も転んでいるくせに、まさか自分が転ぶとは少しも思っていなかったのかもしれない。学習能力のない、しかし恐れも何もない、素晴らしく無敵なこどもだ。

大人になるにつれて、怪我をすることがとても怖くなっていった。確かに、危険を察知し、注意を払うのは重要なことだが、わずかな一歩を踏み出すことにさえ怯えてしまっていたら、前に進むことはできない。

無謀であっても、臆病であってもいけない。つまり、中庸が大事だということだ。極端に振り切れるのではなく、ちょうど真ん中ぐらいがちょうどいい。

たとえば、性善説も性悪説も、どちらも極端なのだ。すべての人間が本来は善人であるとか、逆にすべての人間はもともと悪人であるとか、そんなはずはないだろう。完全な善人も、完全な悪人も、存在しないだろう。存在するのは、一時的な善人であったり、一面的な悪人だけだ。

そう、人間には矛盾した二面性がある。時には良い人になるし、悪い人にもなる。あるときは自己中心的で、またあるときは社会的な動物だ。正しいときもあれば、正しくないときもある。

だから、まったく間違いを犯さない人間はいない。完璧超人なんていない。もしいるとしたら、それはほとんど神様みたいなものだ。人間じゃない。

走って転ばない子どもがいないように、大人になっても必ず失敗はするし、傷を負うこともある。

転んでひざを擦りむいた。怪我をした。傷口は泥まみれだ。

そんなときは、適切な処置をする必要がある。傷を洗って、殺菌消毒して、しっかりと保護をする。その過程は痛みをともなうが、そうしないと後に何倍もの苦しみを味わうことになる。

短期的な苦痛を回避して、長期的な苦痛を味わうのはなんともあほらしい。しかし、子どもは何も知らないから、一時的な痛みから逃れようと必死になる。逆にその行為が生涯に暗い影を落とす危険性があるにもかかわらず、目の前しか見ていなければ浅はかな判断を下してしまうのである。

大人になってからも同じだ。間違いや失敗を放置すると、長期的に見れば、それは大きな不利益になるのだ。「唾でもつけとけばなおるべ」ではなく、きちんと反省し、対処する必要がある。確かにそれは苦しかったり、悲しかったりするかもしれない。しかし、改善しようとするのが早ければ早いほど、その嘆きや痛みは少なく、また短くなる。

そのとき傷口から細菌や悪いものを取り除くのが、まさに「清さ」や「正しさ」なのである。そして一人ひとりがすでにそれらを持っていて、自分の汚れや愚かさを悲しみ、悔やむのである。

たいていのひとは自分の間違いに気づいているし、何が正しいのかも知っている。そして反省しているし、落ち込んでもいる。改善するために努力もしている。

傷は洗った。滅菌もした。あとはガーゼをはって、治るのを待つだけだ。

ところが、おせっかいなひともいるものだ。自己満足なだけの偽善的な正義をふりかざして、傷口に強烈な消毒液をぶちまけようとするのである。

「反省が足りてないよ」「菌がまだ残ってんじゃないの」「ほらガーゼはがして傷口を開いて」

欲しいのは癒しなのに、なぜか傷口をひろげられる。すでに傷ついて、痛みに苦しんでいるのに、もう一度傷を負い、痛みを味わわせられる。

意味がわからないよ。

いや、不潔なままの傷をきれいにするというのなら、まだわかる。逃げ回るこどもを押さえつけて、ちゃんと傷口を清潔にさせることは、まあ必要だろう。善悪を理解できるように教えることは大切だ。

でも、わかってるんだよ。

わかりきったことをどや顔で指摘されても、何の益があるというのだろう。

「あなたの間違いを指摘できるから、私は正しい人間だ」

それはただの自己満足にすぎない。

少なくとも、過ちを犯したことについて、くどくどと説教する必要はないだろう。間違いに気づいているか、確認するだけで十分なはずだ。

何よりも重要なのは、改善することである。前に進むことである。傷を癒して、もう二度と傷つくことのないようにすることである。

殺菌は確かに重要だが、執拗にそれを繰り返したら、治りを遅くするだけである。

独り善がりな正義をふりかざして正しくない過去を責めるんじゃなくて、愛と思いやりによって正しい未来を望ませてくれよ。

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