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近いけど遠い、遠いけど近い。それは時として素晴らしく、時として愚かしい。

SNSとうまく付き合うのは意外と難しい。
ついつい時間を浪費してしまいがちだ。あるいは、無駄に神経をすり減らしたり、エネルギーを奪われたりする。

別にSNSが害悪だと思っているわけではない。ただ、目の前の現実世界よりも仮想世界を愛するのなら、それは優先順位を間違えているな、とは思う。

そう、それは単に優先順位の問題だ。もちろん、SNSに一定の意義があることは認めている。距離的な制約を超えて、ただ情報を伝えられるだけでなく、人と人の心を繋ぐことができるのは、素晴らしい技術であり、機会だと思う。

しかしながら、まわりには生身の人間がいる。いつも支えとなり、励ましてくれる。互いに高め合える存在だ。そんな人たちが今、困っているとしたら、すぐにでも助けに向かうことだろう。

そうなのだ。手の届かない画面の向こうの人々よりも、暖かい心と思いやりの手を必要としている人々が、すぐ近くにいるかもしれないのだ。

手のひらの小さな画面に没頭して周囲が見えなくなってしまうと、まわりにいる人たちの痛みに気づけない。彼らの涙を拭うことができなくなってしまう。

遠くにいる人に思いやりを示すことができるのは、確かに素晴らしいことだ。しかし、だからといって近くにいる人を無視していいのか。優先順位はどちらのほうが上なのか。

もし互いの存在を無視するのだとしたら、同じ場所、手の届く場所にいることは、いったい何の意味があるというのだろう。

拭うことのできる涙を流れるままにする手に、何の意味があるか。
助けを求める声を聞こうとしない耳に、何の意味があるか。

仮想世界のために現実世界があるのではない。
現実世界のために仮想世界が創り出されたのだ。

この肉体があるのは、何のためか。

他の人が悲しみ、苦しんでいるときに、助けの手を差し伸べるためだろう。愛と思いやりを行動で示し、傷を癒すだけでなく、その心を温めるためだろう。

もしかしたら、他の人には興味ないよ、と思う人もいるかもしれない。しかし、ひとの温もりを必要としているのは、必ずしも他の人とは限らない。それは自分自身かもしれないのだ。

そして、助けの手を差し伸べることによって癒され、強められるのは、相手だけではない。自分自身もまた、癒され、強められるのだ。

人と人との関係性は、相互的なものだ。愛は双方の心を温める。愛する者も、愛される者も、喜びで満たされるのである。

情けは人の為ならず。

よい行いも、悪い行いも。よい思いも、悪い思いも。すべて最終的に自分に返ってくる。


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