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葉子、と。

爆風


 一月の静かな朝、街を冷たい風が吹き抜けていく。
 橋の欄干の上に、とても痩せた一人の若者が立っていた。肩まで伸びた髪と白いシャツの裾とジーンズが風に揺れて、皺の影が波のように身体の上を走っていた。

 彼はずっと空を見あげていた。空は青く、そこからは何日も雨が落ちてきていない。橋をゆく人たちは皆、彼に無関心であるけれど、橋の反対側の欄干にもたれた数人が、それとはなしに彼を注視していた。

 彼は欄干の上に立ち微動だにしない。欄干はとても太い丸太でできていて、彼は裸足だった。あまりに動かないので、南を向いて顔を上げた彫像のようだ。相変わらず風は彼の身体に纏い付いている。

 どれぐらい時間がたっただろう、彼はゆっくりと右腕をまっすぐに挙げ、右手をぴんっと立てた。つづいて左脚の腿をゆっくりとあげた。手に上流から飛んできた紙くずが絡みつき、左腿の上に雀が止まった。そのまま動かない。

 午前、日差しは春のようになった。葉子は実家近くの通りを歩いていた。
 前を身体にぴったりとした黒いキルティングコートと真っ赤なスカートの少女が歩いていた。
 しばらくすると少女の肩に松の枯れ葉がいくつも落ちてきて、少女は古い寺から通りに突き出ている松の枝を見上げた。すると猫が彼女の背中に飛び乗った。少女は驚いた様子もなく、黒猫を肩に載せたまま橋に向かって歩いていく。

 次に葉子の前に現れたのはリクルートスーツとおぼしき黒のスーツの女子大生だった。着慣れていない服なのだろう、葉子には、まるで服が人の張りぼてを引きずって歩いているようにみえる。
 葉子はその女子大生が穿いている黒のスリッポンがずっと気になっていた。どうしたわけかストッキングにつ包まれた右足が歩くたびに踵から脱げそうになるのである。左足は大丈夫なのだけれど、右足はどうしても蹴った時に踵が飛び出そうなる。葉子は、はらはらしながらそれを見つめていた。しかも、その靴には何故か見覚えがあるのだ。


 橋の欄干に立つ若者は両手を胸の前に合わせていた。いつのまにか橋の西詰めの病院の屋上の縁にはトンビたちがずらりと並んで川を見下ろしていた。欄干の上には若者以外にも数人が腰掛けている。灰色のスーツの中年男性。あるいは銀と金にデザインされたトレーニングウエアに身を包んだ初老の女性もいる。それ以外にも人がどんどん増えている。
 やがて猫を肩に載せた少女が橋の上に到着。少女も橋の上に佇んだ。葉子も前を行く脱げそうなスリッポンに気をとられながら、彼女といっしょに橋に到着。

 …あ、今日は爆風の日だ!…突然、葉子は気がついた。
 もうすぐ双曲線を描いて爆風が降りてきて、この橋の上から舞い上がる。
 …みんな爆風を待っているんだ。だけど「爆風予報」あったかしら…
「もしもし」
 葉子が女子大生に声をかけた瞬間、まっすぐな川の上流の上空、山と山の隙間で、どおおおおん、と爆裂する音がした。
 女子大生は上流を見つめた。巨大な白煙の輪がこちらに降りてくる。
「あなた、靴を脱いだ方がいいですよ」
「え」
「もう、間に合わないけど」
 と言い終わらないうちに、風速100km/hの風が橋の上に降りてきて人々をさらっていった。

 「おおおお」
 一瞬、待っていた人たちから歓喜の声が聞こえ、たちまち轟音にかき消えた。葉子も女子大生も宙に浮かんだ。女子大生は両足から靴が脱げている。灰色のスーツ姿の男、、金銀のトレーニングスーツのおばさん、などなど。真っ赤なスカートの少女の背中には黒縞の猫がしがみついている。さすがに子供はいないけれど、老若男女が両手を広げて空を飛んでいる。
 葉子はなんとも知れず気持ちがよくなってきて、みんなと同じように手を広げた。
「あああ」と声が漏れる。
 みんなで光に向かっていく。皆の先頭に立っているのはジーンズを穿いた長髪の若者である。背中がとても美しいと、葉子は思う。
…あれ、亨さん!?…

 四條大橋を越え、五条大橋を越え、新幹線をまたぎ、伏見桃山城を左手に葉子たちはどんどん高度を上げていく。右前方に八幡の男山が見えてきた。
…いったいどこへいくんやろ…
 葉子がそう思った途端、葉子だけスピードが落ちた。あ、と思った。
  
…だいたいなんで飛んでるんやろ。
…そもそも何で爆風なんやろ。「爆風予報」??
…え、私、何してんの?

 疑問が浮かぶたびに葉子の高度が落ちはじめた。女子大生は靴のないまま飛んでいく。あああ、と葉子が声をあげると女子大生が振り返った。就職活動をしていた頃の自分の顔をしていた。
「ええっ!」
 先頭を行く亨の背中は光に白く輝いて、どんどん遠ざかっていく。
「いやや いやや いややああ!」

 葉子は墜落していった。木津川の河川敷が見える。死ぬ、と思った。
 瞬間、河原の砂のなかから太いロープのようなものが盛り上がると、葉子をつかまえに来た。葉子は必死の思いでロープに飛びついた。飛びついた瞬間、大きな安心感に包まれて葉子は気を失った。

 眠りから目覚めると、葉子はベッドの中で太いロープのはずの亨の身体にしがみついていた。
「なにがそんなにいやなんや」と亨が頭を撫でている。
「もおお、どこに飛んでいったんよ」
 亨の声をいつもより柔らかく感じる葉子だった。ちいさくとんとんと亨の胸を叩くと、二、三粒の砂が光った。


バックシートの狐

 鳥のコロニーが駐車場近くの竹林にあった。毎朝6時頃になると竹林は騒然とし始める。鳥たちがさえずり始めるのだ。あるいは雛の声も混じっているのだろう。甲高い声が耳につく。それが数分。それから一斉に鳥たちが集団になって竹林から飛び立っていく。それが台風などの激しい天候の日を除いて毎日繰り返されるのだけれど、亨はだいたいその頃に駐車場にくるものだから、いつも車の傍らで飛び立つ様子を見上げてしまう。
 その羽ばたきの音は道行く人の視線を空に吸い上げるような力があった。

 その日は冬の曇天を黒い点描の波がうねるように鳥たちが飛び立っていった。そこへ亨の仕事を手伝っているアルバイトの大学生、波多野が駐車場にやってきた。長身の痩せた身体を黒いジーンズと黒いパーカーでつつみ、襟を立ててている。肩までの髪が風になびいていて彼も空を見上げていた。

「凄い数ですねえ。なんていう鳥なんでしょう」
 波多野の横顔はとても白い。純白でも、アイボリーでも石膏でもない白。
彼が面接に来た時、店中に一瞬沈黙が走ったのを亨は憶えている。みんな驚いたのだ、と亨は今でも信じている。何故なら亨は生まれてこの方、こんな美しい男にであったことはなかったからだ。彼は20歳である。
 
「わからないんだよね。地上には降りてこないし、それにあの竹林には近寄れないだろ」
「はい」
 と、いって波多野が竹林をみる。竹林のまわりは家に囲まれていた。
「ぼくも鳥の名前が気になって竹林に近寄ろうとしたことがあるんだけど無理なんだよね。それぞれの家の裏庭が面しているようではあるんだけど」
「うーん、たしかにそうですね。それに結構高いところを飛んでいきますね。雀じゃないな」
「うん、雀じゃないよ。…さあ、仕事にかかるか。帰ってきたらまた見ることができるし」
 二人は車に乗り込んだ。

 今日の仕事はCSアンテナの取り付けである。それを三軒こなす。
 亨が屋根に登りアンテナを立てて調整する。波多野は下からのサポートとテレビを見ながら同調のチェックだ。あまりあわない時は亨が屋根の上から横浜にある本社まで携帯で問い合わせをしたりもする。もちろん屋根の上と部屋とのやりとりは無線だ。
 波多野は忙しい時にはいつも来てくれる貴重なアルバイト。基本的な知識も今では相当身につけていて、亨はずいぶん助かっていた。

 その日は一日中曇天で風はなかった。屋根の上から朝の鳥たちがどこに行ったものやらと、時々捜してみるけれど、空を悠々と飛んでいるのはカラスばかりだった。

 亨は葉子のつくってくれた弁当、波多野はコンビ二の弁当で昼食をすませると、ミニバンを電車道沿いの広い通りの路肩に駐めて、二人で休んだ。
「ラジオ聴く?昼寝?」
 亨が運転席から後部座席に座っている波多野に声をかけた。
「いまかかってるFM局好きなんで、できれば…」
「O.K.」

 おーーーー。おーーーー。

 托鉢の雲水の声が通りに響いた。ふーん、昼間に歩くなんて珍しいな、と亨が呟いていると、五人の編み笠を深くかぶった雲水たちが車の横を通り過ぎていく。この寒さのなか藍染めの法衣に素足である。さすがにトンビのようなものをまとってはいるけれども。
「『天竜寺僧堂』か」
 亨が前垂れに書かれている文字を読んだ。
「あれは嵐山の天竜寺、ということですか」
「そうだよ。托鉢にでるのは禅寺の坊さんたちがほとんどだから、『妙心』とか『大徳』とか書いてあるんだ」
「最近、観光客相手に偽物がいるとかニュースでやってました」
「まあ托鉢してるのは禅寺だけじゃないけどね。寺の名前が書いてないのはぼくは信用しないんだ」
「今のは?」
「正真正銘のホンモノ」

  おーーーー。おーーーー。

 雲水たちが通りにばらばらに展開していく。
「花村さん」
 と波多野が声をかけた。
「うちの田舎の方では『狐がえり』ってあるんですよ」
「じぶん、家どこやったっけ?」
「美山です」

 美山とは京都市街から北へ山をいくつか越えたところにある、丹波の最南端の町である。 最近の市町村合併で南丹市の一部となり、こちらも拡張された京都市右京区と接している。合掌造りの残る、その名のとおり美しい田舎である。

「ちょうどあんな恰好をして子供たちが集落の家を回るんです。あんな坊さんの恰好じゃなくて全員黒マントを着てね」
「君もやったん」
「ええ」
「美山って広いよね」
「川谷っていう集落だけなんですけどね」
「ふーん」
「家の前で、ワァーていうんです。そうすると家の人がでてきて祝儀を渡してくれるんです」
「へえ、年に一度」
「一月に」
「『狐がえり』っていうぐらいだからお稲荷さんと関係があるのかな」
「ぼくもよくわからないんですけど、ただ昔からずっと続いているんです」
 で、おもしろいのが、といって波多野が亨に少し顔を近づけていった。
「みんなで回っている間、人に会ったらさあっと隠れないといけないのです」
「へえなんでやろ、見られたらあかんなにかがあるわけや」
「そうらしいんですよ」
 といって波多野が黙るので亨がルームミラーを見ると、美しい狐の姿が映っていた。
「おおお!!」
 と、言って亨が振り返ると波多野が長い睫と透きとおるような瞳で亨を見つめ返した。
「あああごめん缶コーヒー、呑むか?」
 波多野がにっこり笑って肯いた。

 おーーーー。おーーーー。
 雲水たちの声が遠ざかっていく。

 午後からの作業も順調に進み、無事店に帰った。
 亨は報告をすませ、波多野は日当をもらった。それから二人で片づけを済ますと、車で駐車場まで戻った。波多野のアパートもそれほど遠くない。

 強い北風が吹き出して、雪がちらちら舞いだしていた。
「美山は雪だろうね」
「たぶん積もってますね」
 竹林の手前、高圧電線に朝の鳥たちが集まり始めていた。
「凄いから見ててごらん」と亨がいっている間に電線は鳥たちで埋め尽くされていく。
「ヒッチコックみたいですね」
「ほんまにな」
 と、いいながら亨が波多野を見るとトニパキのような目になっていた。
「あれでたぶん全員が揃うのを待っているんやろね。もう少しすると飛び立って竹林に戻るんだよ」
 すると鳥たちが一斉に電線から飛び立った。町ゆく人が皆見上げている。鳥たちはぐるうんと大きく旋回したと思うと竹林に姿を消した。
波多野は黙ってそれを見つめていた。
「じゃあ、お疲れさん。また頼むよ」
「ええ。また電話してください」
 黒ずくめの細い後ろ姿がしなやかに歩いていくのを見送ると、亨は家路についた。

 夕食の時、話題は「狐がえり」になった。
「へえ、丹波と丹後では違うのね」と葉子は言う。
「若狭とか舞鶴のあたりだと狐は田畑を荒らすからって、昔は『狐狩り』をしてたんだって。その名残のような風習が残ってるってきいたことあるわよ」
「波多野君たちはその日だけ『きつね子』といわれるんだってさ。ひょっしたら美山の方では狐を狩るんじゃなくて、奉って田畑の無事をお願いしていたのかも」
「お稲荷さん?みたい」

「でもそんな話しててさ、後ろの席に狐がいたら怖いよね」
 亨は昼に見た幻影のことを話した。
「ほんとに見たの?波多野君に言ってないでしょうね」
「そんな失礼なことは言わへんよ」
「ならいいけど、たまたま亨さんのアタマがトんだんやろか」

 それからも二月の寒さは続き、雪は何度か積もった。私立大学の入試が終わると学生相手の商売は四月まで忙しくなる。電器店もそうだ。
 新入生の新規の下宿生活に伴う、いろいろな家電をセットにしての販売だ。店の近くに大学があるという地の利を活かすことで、店もしのいできたところも随分とあるのだ。すでに何件か成約しているものもある。
 亨はそろそろ配達を波多野君に手伝ってもらおうかと、社長に相談してみた。何軒かまとめて納品する時は二人で、という指示だった。今、亨はスケジュールをまとめているところである。

 今日も駐車場に行くと、鳥たちが飛び立つ。それを見送り、車に乗り込む。
 変わらない毎日。
 あと何日かで再び波多野と一緒に仕事をする。気が利くし、良く動くし、助かるなと亨は思う。
 亨は車のルームミラーを覗き込んだ。磁器のように白い波多野の横顔を思いだしていた。


金柑

一月も半ばを過ぎてから、街には凍えるような寒さが居座り続けていた。ずっと曇天で、雪は時折、降るのだけれども積もることはなく、冷たい強風が吹き抜けるばかりだった。
 だからだろうか、最近、外での仕事が多い亨が、喉がいがらっぽいんだといいながらよく咳をする。
 そこで葉子は昔、母親に作ってもらった「金柑シロップ」を作ることにした。葉子自身の体験ではたしかに喉にはいいはずだったから。
葉子は行平鍋の底いっぱいに金柑を敷き詰め、ひたひたまで水を入れると、砂糖を加え、混ぜながらレンジの火をつけた。

 弱火でことこと煮つめながら外を見ると、みぞれ混じりの風の中、二軒隣の庭でプランターに球根を植えている主婦の姿が見えた。何もこんな日に、と葉子は思ったけれど、そういえばチューリップの植え付けは冬だったことを思いだす。子供の頃によくやったものだった。
 主婦の黄色いウィンドブレーカーが強風にばたばたと揺れている。足元には四隅を石で留めた新聞紙が敷かれ、そこには球根が転がっていた。もう緑の芽を吹いている。
 少し遅いかな、と葉子は思う。
 確か自分たちは12月にはもう植え付けは終えていた。きっと何かの事情があって遅れたんだ、ひょっとしたら忘れていたのかな、だけど芽が吹いた球根をホームセンターでは売っているし…。

 チューリップは冬の終わりぐらいから加速をつけたように伸びていき、3月から4月にかけて花を咲かせる。花が終わっててしばらくすると球根を掘りだして、物置の上の棚に新聞紙を敷いてその上に並べておくのだった。そして冬に再び植え付ける。植え付ける時に、前に植え付けた時より球根は一回り大きくなっていた。子供の頃の葉子はそれが不思議で、球根は空気の栄養を吸い取っているのだと信じていた。

 あれって結局どういうことだったんだろう。

 葉子はふとそう思いながら鍋のなかを菜箸で静かに混ぜる。すると金柑の香りがたちのぼり、気持はいっぺんに鍋に戻った。
 金柑の表面の硬さがとれているのが色で感じられる。だいだい色が優しくなった、と葉子は思う。
 30分ほどたっただろうか、葉子は火を止め、レンジから鍋をおろした。窓から外を見ると主婦の姿はなく黒々としたプランターの土が綺麗にならされていた。
 


 シンク横の作業台には昨晩から水に浸けられた金時豆がある。葉子は金柑をシロップごと瓶詰めにすると、次は金時豆を炊きはじめた。これも水と砂糖。醤油をを少しだけ入れる。甘さを引き立てるには塩をほんの少し入れること。それも母から教えてもらったことだった。
 
 亨が帰宅。寒そうな顔をしている。すぐに風呂。それから夕食。その前に葉子が「金柑シロップ」をお湯で割って差し出した。
「お、いい匂い」
「喉にいいから」
「うん……甘…………実も食べるの」
「もちろん」

「おいしかった。ありがと」
「風邪ひいてない?」
「大丈夫」 

 夕食は肉じゃがと塩鯖、ほうれん草のおひたし。金時豆はちいさな器にいれたけれど、二人とも大好きなので炊いた半分を食べてしまった。
 片づけが終わると葉子は黒豆を出してボウルにいれる。ざらざらという音にテレビを見ていた亨が顔を上げた。
「また金時豆?」
「ううんこれは黒豆。喉ににいいんよ」
「黒豆も好きだな」
「甘いおつゆが、ね」
 
 母から教えてもらった「皺にならない炊き方」の成功率は今のところ70パーセントぐらいだけれど、上手に炊こう、と葉子は思う。
 黒豆を水に浸して亨の横に坐ってくつろいだ途端、昼にみた主婦の背中を思いだした。

「チューリップかあ」
「なになに?」と、亨。
 葉子は球根を植えていた主婦のことを話した。
「球根が太ること知ってる」
「花が咲き終わってからだろ。葉っぱと茎だけ残して放っておくと光合成をして球根が太るんだ。掘り出した時に大きくなってるよな」
「あれはやっぱり土の中で大きくなってるんだ。私は空気を吸って大きくなるんだって思いこんでた。錯覚なんやね」
「はは、もしそうだったらおもろいんやけどね」
「そうやね。放っておいたら物置いっぱいになったりして」
「そこから屋根突き破って芽が伸びて」
「巨大チューリップが咲いたりして」
「はははは」


 翌日、横殴りのみぞれ混じりの強風が吹き荒れるなか、葉子は公設市場に買い物に出かけた。途中、球根を植えていた庭の横を通った。近くで見ると球根はもう芽が吹いていて表面に小さな緑が点々とついている。うまく伸びていけばいいな、と葉子は思う。
 その家の庭には梅の木があって、もう花の蕾が膨らんでいた。冬の真ん中だけれども、もう春は動いている。歩きながら他の家の木々も見るとコブシも芽が大きくなっていた。

 家では黒豆を電気鍋でゆっくりゆっくり炊いている最中である。豆に皺をつけたくないので早く帰ろうと急いで買い物をしていると、八百屋で昨日、球根を植えていた主婦と出会った。マスクをしていて小さく咳をしている。主婦の目がうろうろと動き、止まり、まっすぐに手が伸びる。
「まいどおおきにぃ。はいっ金柑やね」
 葉子の横で八百屋のおかみさんが声をかける。葉子の唇の両端が少し上を向いた。葉子が売り場を覗き込むと、タラの芽があった。
「ええっ、もうタラの芽でてるんやね。早いなあ」
「そう、ぼちぼち出だしてるよ」
「真冬やのにね」
「もう春はすぐやで」 
 気がつくと葉子の横でマスクの主婦がいっしょにタラの芽を覗き込んでいた。おばさんの声に二人で顔を見合わせる。
 どちらともなく会釈。

 八百屋のおかみさんがマスクの主婦に金柑を渡しながら
「奥さん、風邪ひいたん?喉?」という。
 マスクの顔がこくんこくんと肯く。  
「黒豆もいいんですよね」と葉子。
「そうそう」とおかみさん。
 主婦の眉間に寄っていた皺が緩み、マスクの上で目が優しくなった。金柑は主婦の買い物籠にすぽんとおさまる。
「タラの芽ももらうわ」マスク越しにくぐもった声。
「わたしもください」と葉子。
「それと黒豆も」と、ちいさい会釈を葉子に向けながら主婦がいう。
「チューリップ、綺麗に咲くといいですね」
 葉子がそういうと、主婦は一瞬、動きを止めた。すぐに目が半円になり目尻いっぱいに皺が浮かんだ。

                        (続く)




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