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葉子、と。

発芽


 とても幸いな事に京都には恵の雨だけをもたらして台風が去った後、季節が急に動き出したように葉子は感じていた。
  ベランダのハーブたちもなんとか猛暑を乗り越えたようだ。
 パセリ、セージ、ローズマリー、タイム。タイムが少し弱っているくらい。
 今年はその鉢たちに並んで、バジルとニガヨモギの鉢が置かれている。バジルは料理のために、ニガヨモギは「自家製殺虫剤」をつくるために植えたのだった。

 葉子も大宅さんも、また路地で植物を栽培している主婦の誰もが市販の園芸用殺虫剤(化学薬品)の使用に敏感になっていた。葉子は口に入れるものは無農薬、と考えていたのけれど、バジルがいつも虫にぼろぼろにされ、ずっと栽培の失敗が続き、何とかしたいとずっと考えていたのだった。
 
 今、鉢に収まっている苗はスーパーマーケット横に車を駐めて移動販売している花屋さんの処分品。それをたまたま見つけた葉子は、形は悪く枯れかけていたけれど、格安だし、これなら失敗しても落ち込まないし、と思って買ったのだ。
 だけど弱っているものは回復させましょう、立ち上がったら成長させましょうと思ってしまうのが葉子。
 そして、前のめりになって世話をしているうちに、てらてらと光る充実した葉が増え出した。ところがそうなると、かつて虫にやられた記憶がぶり返してきて、ずいぶん神経質になっていたのだった。
 ある日、薬を使うしかないのかしら、と葉子が溜息まじりに大宅さんに話してみると、(例によって門掃きの時に)大宅さんのように薔薇を栽培している人にとっては化学薬剤は不可欠なのだそうで、マスクをして噴霧するのだけれども、それでもなんだか気持ちが悪くなる事もあり、逆に何かいいアイデアはないかしらねえ、と逆に訊ねられてしまった。

 そんな折、葉子は京都在住の園芸家の庭を紹介する番組をたまたまテレビで観た。(大宅さんも観ていたそうだ。)同じ気候条件だから栽培のヒントがあるかも、と思わず前のめりになって。
 そしてふと、よく手入れされた植物たちにまったく虫の害がない事に気づいたのだった。
 葉子にスイッチが入った。
…どうすればきれいに育てられるんだろう…

 園芸家について調べ、その人に著作のある事を知り、すぐに手に入れた。
 やはりありました。農薬ではない天然由来の材料でつくられる「自家製殺虫剤」。

 早速、またしても朝の門掃き中に報告だ。
「大宅さん、私、つくってみる」
「頑張って!!できたら分けてね」
「うんっ!!!でも二ヶ月かかるわよ」
「春に間におうたらええの」
「あらま」

 材料は以下のとおり。
 ホワイトリカー、赤唐辛子、にんにく、ワームウッドまたはヨモギ(乾燥または生の葉)、除虫菊(乾燥させた花)。
 そしてホワイトリカーに他の材料を二ヶ月間漬けておく。 

 材料のほとんどはすぐに手に入るものだ。見慣れないのはワームウッドと除虫菊。
 除虫菊は近くの自然食品や天然由来の石鹸などを扱っている店に置いてある事がわかった。問題はヨモギである。

 「ヨモギ」といえば道端にいくらでも生えている雑草のような感覚が葉子にはあったのだが、いざそういう「眼」で探してみると見つからない。見つからないままさらに調べてみるとヨモギよりもワームウッドのほうが殺虫効果が高そうなことがわかった。ワームウッドは日本名でニガヨモギという。

「それってアブサンに入ってる草だよ」
 夕食の時に亨が言った。
「飲んだ事ないけれど、きつーいお酒?」
「うん、たしかヨーロッパのどこかでは生産や販売が中止になってるはずほどキツイ」
「そんなに?」
「うん。だけど『殺虫成分配合の酒』って言葉を並べたらなんか凄いよね。なんだかほんま廃人になるイメージやなあ。そうかあ葉子がつくろうとしている天然殺虫剤はアブサンにニンニクやら唐辛子やらをつけ込んだようなものなんや」
「う、うん」

 それから何日か葉子はホームセンターに行ってみた。しかしニガヨモギを売っているところはなかった。そこでネット検索。すぐに販売店がみつかり、注文。翌日には代金と送料を振り込み、(振込手数料のほうが高いくらい安価)
三日後には鹿児島から種の入ったちいさな袋が届いた。
 
 「Warmwood」と大きく書かれた袋はすべて英語で表記されている。「made in~」という表記はないけれど、あきらかに外国の種のようだ。二センチ四方の小さい紙がホチキスで留めてあり、そこに「ニガヨモギ」と書かれていた。
 早速、葉子は種まきの準備を始めた。直径も高さも5センチほどの黒いビニールポッド鉢に種まき用の土を満たし、水をたっぷり入れた受け皿に置く。土はあっという間に水を吸い上げしっとりとした表面になった。

 葉子は紙袋を開封した。すると中からさらに小さいビニール袋がでてきて、そこに種が入っていた。
 葉子は一瞬、息を飲んだ。
 種は…そんな事は予想もしていなかった…何とも小さく、か細いものだったのだ。長さ2、3ミリの、黒くとても細い糸の切れ端のような。

「なんて小さいの」
 葉子は思わず声が出た。
 するとその声に突き動かされたように指が動き、種をひとつまみつかむと、ポッド鉢に一列に一気にざっと並べてしまった。
 少し放心した後、葉子は重なり合っている種を指で静かに均し、土を薄く被せた。もっと丁寧にやるつもりだったのだけれども。

 しんとした土の表面を見ていると
「結構、おごそかなものなのね」
 と、また言葉が口をついて出てくる。すると「おごそか」という言葉が頭いっぱいにひろがっていく。
…眠っていた命を指でつまんで土へ戻し、そのスイッチを押したんだもの…
 葉子はどきどきしてきた。

 種を蒔いた土は鉢下の小さな穴から水を吸い込んで、さらにしっとりとしてきた。咳一つで飛んでしまいそうだった種も濡れた土に貼り付いたようだ。
 葉子は人差し指のお腹で土の上をそっと撫でるのだった。


 種を蒔いてから三日が経った。
 黒いポット鉢の表面にはなんの変化もない。
 亨は葉子の神経が「立って」きている、と感じていた。ひっきりなしにベランダの明るい日陰に置かれた鉢に視線が行くのである。よく管理されていた種だから心配ないとは思うのだけれども。

 翌日も変化なし。
 その日の夕方に亨が帰宅すると、隣家のクーラーの室外機からこぼれる水滴の音が耳に障るの、と葉子が言う。
 思わず亨は葉子を座らせ、だいじようぶ、だいじょうぶと言いながら肩を揉んだ。
 葉子は亨の手のひらの感触に自分の事を思ってくれる亨の気持ちを感じるのだった。亨は亨で、落ち着こうとする葉子の気持ちが、それこそ前に倒れたうなじを見ただけでわかる。
「大丈夫、大丈夫」

 種は翌日、発芽。
 葉子が並べたとおり、緑の一文字になって世界に現れた。葉子は大喜び。途端に表情が明るくなった事が亨にはわかる。だけど亨にはまだ心配事があった。
 葉子が「間引き」ができるかどうか、である。

                             (了)

金木犀


  葉子の住む路地から三世帯が去った。
 一つは大宅さんの二軒隣のお家。お祖母さんとともに暮らすための引っ越しである。もう一家族は腰にタトゥーをいれていた村井さんの家庭。この路地に住み始めてそれほど日が経っていないのだけれど奥さんの病気のために実家に戻る事に。さらにもう一軒は独り住まいのお婆さんの家。お婆さんが転倒し、大腿骨を骨折しために入院。そのまま老人ホームに移る事になったのだ。 路地は一段と静かになった。


 今朝も葉子は門掃きをしていた。朝日の中にいると温かさを感じ、そんな季節になったんだ、と思っていると、金木犀の香りが流れてきた。
 葉子は掃く手を止めて思わず顔を上げた。お寺の山門の向こうに金木犀を垣根にした家が何軒もある。香はそちらからきているようだった。

 山門をくぐり、様子を見に行った。花は一度に咲き出したようで、黄金の小さな花が緑の葉の中にたくさん浮かんでいる。葉子は香の洗礼を浴びながら、自分が最近、顔を上げていなかった事に気づいた。何度も金木犀の下や横を歩いているのに、徐々に膨らんでいったはずの黄金の花の蕾に全く気がついていなかったから。

…いつのまにか、そんなにうつむいて暮らしていたんや…
 葉子は腰を前に出し、胸を意識して前にそらして空を見上げた。体の芯で「ぽきん」と音がした。
…あかんあかん猫背になってたんとちゃうやろか…
 胸を張ったまま掃除に戻る。

「妻が適応障害なんです」
 引っ越しの挨拶に来られた村井さんの旦那さんが俯きながらそういっていた姿を思い出した。「我が道を行く」という雰囲気の奥さんだっただけに意外だった。それにタトゥーのことをうるさく言っていた人たちはもう町内にはいないのに、何故引っ越しを、と思ったら子供さんも転校先でうまくいっていなくて、と言うのだ。
「病気がなんとかなったら、また戻ってきますから。ちょっと時間がかかりそうですけれど」とも。
…俯きだしたのは、あの日以来かも知れない…


 買い物に出ると街中に金木犀の香りが流れていた。意識して視線をあげると柿の実が色づいている。さらに肩胛骨に力を入れて胸をぐっと反らせてみる。芙蓉の花が咲いていた。また体の芯で音がした気がした。
 亨と暮らす日々。ただぼんやり時間を削ぐように生きているつもりはないのだけれど、この数週間、まるで世界を見ていなかった。葉子は一週間の自分の姿を反芻してみた。

 俯いていた原因としては、路地からどんどん人が減っていくことぐらいしか思い浮かばない。そんなこと意識した事もないのに、と葉子は思います。
…さみしくなったから?…まさか…

 秋の光はたっぷりと街に降り注ぎ、大通りが近づくにつれて空が大きくひろがって見えてきた。真っ青な空に輝く白雲が浮かび、乾いた風が吹き渡っていく。
 こんないい天気がずっと続いていたのかしら、と葉子はすっかり昨日までの自分を疑ってかかる。やっぱり顔を上げていなきゃ、と。今更ながら。

 大通りに出る角はコンビニの駐車場になっていて、そこを誰かが走っていった。その後ろを小学生が走っていく。さらに子を追い抜いて真っ赤な顔の女の人がいきます。…えっ大宅さん!!!…
 次の瞬間、葉子は走り出していました。すぐに小学生に追いつきました。
「どうしたの」
「ひったくりです。ぼくの財布とられました」
 葉子は前方を見ます。
「あの、おじさん?」
「黒い服のおじさん」
「ケータイ持ってる?今すぐ110番しなさい。おばさん『たち』が追っかけるから」
「はい」

 大宅さんがもの凄いスピードで男を追っていく。


「こらあ、待ちなさい!!誰かそいつを止めてえ!!どろぼーどろぼー」
 その声が葉子のところまで聞こえてきた。しかし街ゆく人は振り返りもしない。ケータイで誰かと話しながら黒い服の男とすれ違っています。
…ええ何?みんな聞こえないの?…
 葉子もスピードを上げました。
「待てえドロボー!!」
 大宅さんの声が大通りから細い路地の中へ何度も響いている。ようやく数人の男の人たちが反応し始めた。と、あっというまに男は取り押さえられ、大宅さん、葉子、男の子の順で追いついた。やがて警察官が到着。短く事情聴取をされて一件落着。大宅さんと葉子は帰路に、いや途中だった買い物に向かった。

「大宅さん、脚早いのねえ」
「いやあそんなでもないけど、絶対逃がさへん、て思たんよ。あの男の子と眼がおうたん。それがなんともいえん悲しい眼ぇやってね。あかん。これはあかんぞって。子供にあんな眼させたらあかんって、ええかっこゆうたらそうなんやけど。もう絶対いややから。それは」

「なるほどね。だけど怖くなかった?私ねちょっとぞっとした。相手がナイフ持ってるとかそんなんよりも、大宅さんが叫んでるのに誰も反応しなかったでしょ。なんだか冷やあっとした」
「そうやねえ」
 大宅さんは地面を見つめながら歩いている。
「叫んでる私一人が世界から浮いてしまっているような、別の世界にいるような変な感じはしたね」
「最後にいろんな人の怒声が混じって、ようやく現実に戻った気がした」

 二人はゆっくりとスーパーに近づいてきた。
「ああ、それにしても今日はいろいろと目が醒めるような事ばっかり」
 と、葉子が言うと
「強烈すぎるわ」と、大宅さんは苦笑いです。

「あれ?花村さん」
「ん、なに」
「金木犀の香りがする。花が咲いたんやね。今、気がついたわ」
「ふふふ」

 二人は香を運んでくる風の方向をじっと見つめるのだった。

                           (了)
  

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