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ひとつ言わせて 君無しじゃいられない

こんな日が来るなんて思ってもなかった。
椿屋四重奏二十周年記念公演 真夏の宵の夢/続・真夏の宵の夢。
椿屋探訪やソロ10周年記念で永田さんと共に生存確認(再結成)はあった。
ソロのライブでも椿屋四重奏時代の名曲は歌ってくれていた。
けれど、完全に椿屋四重奏の中田裕二としてここまでふりきってくれたパフォーマンスが見られるとは思ってもなかった。

13年間さまよい続けた亡霊が成仏した日

2023年8月27日(日) 昭和女子大学 人見記念講堂。
9月4日(月) GORILLA HALL OSAKA。
わたしは『椿屋四重奏二十周年』、そして『椿屋四重奏』を見た。
13年間、何ともないような顔をして生きていたけど本当はずっと苦しくて、悲しくて、寂しくて、一度だけでいいからまた会いたかった。
だから中田さんが冗談交じりで言った『亡霊』という言葉は、わたし自身に関してはその通りだと思った。
長年積み重なっていた『中田裕二にとって、椿屋四重奏はもう触れることのない存在なのだろう』という気持ちがきれいに消え去った。
わたしたちと同じぐらい、むしろそれ以上に椿屋四重奏を大事に、愛おしく、愛していたのだと痛いぐらいに感じた。
そう感じた2023年8月27日、椿屋四重奏の亡霊(関西人)は成仏した。

君しかいないのに

高校2年生の秋。ただのジャニヲタだったわたしは、CMから流れてきたASIAN KUNG-FU GENERATIONの『ループ&ループ』をきっかけに『ロック』に目覚めた。
SCHOOL OF ROCK!というラジオで、たしか水曜日がアジカンROCKSだった記憶がある。そこではアジカンが毎週自分たち以外のミュージシャンのおすすめ音源を流していた。(いろんな音楽を知る機会を提供したい、というゴッチの意向だったような覚えがあるが定かではない。)
その日のアジカンROCKSを聞いたのは、祖父が亡くなりばたばたしたあと、いったん家に帰るという車内だった。
塾が忙しいと言い訳をして祖父に会いにいけなかった後悔と、よく知る身内が亡くなったというショックで落ち着かないままラジオをかけた。
確か紹介者は伊地知さんだったと思う。薔薇とダイヤモンド。メンバーが絶賛していた。『喜多さんと中田くん、似てる』みたいな話をゴッチが切り出し『似てるかなあ?』と喜多さんが笑っていた気がする。
その年の12月、ただのジャニヲタだった高2のわたしは「ROCK ON GENTLEMEN」のチケットを買い生まれて初めてライブハウスを知った16歳。そこからわたしは椿屋四重奏の世界に引き込まれていった。
ライブもほぼ通った。夜行バスで大阪と当時下宿していた岡山を行き来して。
そんな中、椿屋四重奏という青春のすべてだったバンドが2011年1月11日に解散した。
大学3年生。新年1発目の内科実習初日の昼休み。
現実を飲み込めず、適当に実習をこなし、軽音部の部室でぼんやりとしていた。(みんなから『大丈夫か、解散したやん』と心配されたことは覚えている)
ただただ信じられなかった。好きでたまらず、昼ドラ、夜ドラのタイアップがついてきたことにもわくわくしていた。
まさか自分が見た最後の椿屋が、2010年11月18日の岡山公演になるだなんて思いもしなかった。本当に、思いもしなかった。『また次のライブ』と勝手に期待していたからだ。必ず次があると、解散するなど微塵も疑っていなかった。
解散当時の各メディアでのインタビューの内容や空気感から『二度と中田裕二という人間が「椿屋四重奏」を振り返ったり、表に出すことはないのだな』という印象を受けたので、完全に椿屋四重奏はこの世から消えた、二度と表舞台に椿屋四重奏が出てくることはないなと感じた。
完全に個人の印象で、勝手な妄想だけれど「中田裕二という人間(ミュージシャン)にとって、椿屋四重奏は封印され、今後も触れられることはない存在」なのだとも感じた。
これもまたわたしのあまりにも極端な曲解だけれど、椿屋四重奏を否定しているんじゃないか、それを追いかけていたわたしたちファンのこともどこかで否定しているんじゃないかという思いもあり、余計に寂しくて悲しかった。

伝えたい言葉足りないよ

彼が『椿屋四重奏二十周年です』と挨拶したとき、彼の中では『中田裕二と小寺良太と永田貴樹じゃなければ椿屋四重奏ではない』と思っているのだと受け取った。
そしてまた繰り出される演奏を浴びて、当時を再現したりなぞったりするのではなく進化した椿屋四重奏を見せつけられていると思った。
当時の若さゆえのギラギラとしていて目の前にいるファンもすべて敵だと思っているかのような疑いのまなざしでパフォーマンスする中田裕二も、とんでもなくかっこよかった。
ギターも歌も、わたしたちを突き刺して全員の息の根を止めるための道具として扱っているんじゃないかと思うぐらいにとがっていた。
そんな当時の椿屋四重奏も間違いなくかっこよかった。
なのに、宵の夢で見た姿はどうだったろう。
少し落ち着いたギターと声。いろんな経験や年数を重ねた彼から繰り出されるパフォーマンスはやわらかいはずなのに当時よりも殺傷力があがっていたように思った。一発で心臓を突き刺し、一撃で確実に急所を仕留めてくる姿。
大阪のオールスタンディングでは、さらに凶暴さを増したような歌と演奏だった。最前列から見上げた彼の表情とパフォーマンスに恐ろしさすら感じたし、酔狂のごとく腕を突き上げていた。

そして正直、一切期待していなかった椿屋四重奏のベーシスト永田貴樹さんの登場で、完全に記憶を失ってしまった。
もう一般人で、すでに別の人生・時間があるはずなのに、こうして『椿屋四重奏』に一瞬でも戻ってきてくれたことに心から感動して、感謝の気持ちが止まらない。本当に、ありがとうございました。(保育に携わる副園長という状況も知れた。)

夕映えの中 振り向くなよ

二十周年記念公演を見るまでは『過去を懐かしんでしまうかもしれない、ソロ活動よりも椿屋を望んでしまったら』という不安な気持ちも大きかった。
だけどそんな心配は一瞬で吹き飛んだ。
それは中田裕二という人が過去をなぞるのではなく、椿屋四重奏の核となるエッセンスだけを見事に抽出して、『今の姿』で表現したからに間違いないと思っている。

今の中田裕二というソロミュージシャン率いる、最強のメンバーが作り出す椿屋四重奏の姿はあまりにもかっこよすぎた。
そして椿屋四重奏二十周年を支えた奥野さん、隅倉さん、カトウタロウちゃんたちが、普段のスタンスから『椿屋のサポート』に徹していたのがとても印象深かった。
奥野さんはキーボードの存在感がすごすぎるし、関西人やからボケまくりでとりあえずやかましい。(褒めてる)隅倉さんはベースうますぎてベースの音が最前にでてきてまったく隠しきれない。(褒めてる)タロウちゃんはおしゃべりくそ野郎(※自分で名乗ってた)で販促隊長、2秒あったらおふざけ5個はさむぐらい。(褒めてる)
なのにそういうのは一切なく、椿屋四重奏の楽曲の一部として演奏してくださったことにプロとしてのかっこよさと愛を感じて、余計に大好きになった。

椿屋四重奏という過去に浸かる気持ちなど、微塵もおこらなかった。
中田裕二というミュージシャンのソロ活動への期待値が爆上がりした。今すぐにでもソロ活動としてライブをしてほしい。『中田裕二』が見たい、と心の底から思った。

本当にこれで、完全に椿屋四重奏の亡霊は成仏できたらしい。
会いたかった、寂しかった、苦しかった、という胸のつかえと積年の思いがきれいに消え去った。
ありがとう、椿屋四重奏二十周年。そして椿屋四重奏。
真夏に見た一瞬の幻。でも確かにわたしは見た、椿屋四重奏を。


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