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noteでチンをフリフリ

文章を書くとは下品な行為だ

一体何度この手の過ちを繰り返すのだろうか。

自己の発話ではなく、自己とは異なるテキストによって自己を代理的にでも表出させようする行為。一体だれがお前に文章を書けと頼んだのだ。誰もお前が心の肉棒を擦り上げるさまなど見たくはないだろう。

自己顕示とは、自己を表出し、他者に承認(是認ではない)してもらおうとすることだ。その点で、文書を書くという行為は大変に自己顕示的だ。文章により自己の信念をそして自己を表出する。一体、生存以外の目的で自己を表出させる必要があるだろうか。別に文章を書かなくても死ぬことはない。あるいは、全く記録に限る文章がないとは言わない。しかし、多くの文章は著者がチン○ンを振っている様が見えてしまう。

そう、文筆とは全く無駄な行為である。これがなくても、人類は生存可能である。

お気持ち表明

では何故文章を書くのか。

これは「無駄」であるからと考える。
「無駄」は楽しいのだ。陳腐な話となって申し訳ないが、生存に拘泥しない行為は純粋に自身のために行える。身体活動の維持や社会に存在し続けるという、泥臭い行為ではない。
それ故に楽しい。

生存(「生」とは異なる)が個人のものでなく、社会的なシステムへと還元された現代において、生存行為は限られる。そうなれば、存外にやることは減るのだ。人生の大半は「無駄」な行為となる。それをしなければ生存不可能となる行為は限られる。絶対的価値という点では人生自体が「無駄」とも言えるが。
誰しもが文書を書き共有できるnoteは、現代的である。暇と承認の空間だ。
(進化心理学的には、「無駄」な行為も適応の一種で、生存に真に無要とは限らないかもしれない)

私個人に限れば、文章を書くという行為にはもう一つ意味がある。
それは、文章という他者を通して自己をみつめる、ということだ。一度書いた文章はもはや私のものでもなく、別のものとして私に迫る。
しかし、それを書き、そこに自己を表出させたのも私だ。こうなると、単に省察する以上の省察が可能となる。
幾つかの志向性や知覚の束という限りで他者性を持つ自己を内省するのではなく、実際に文章となり、より能動的な他者性をもつ自己をみるのだ。

文書で自己を表出させ快楽を味わい、そして表出されもはや純粋な自己ではなくなったものを通して自己を省察する。これが私にとっての意義だ。

つまり何?(ここだけ読めばいい)

長くなった。上の文書は読まなくてよい、私がチンをフリフリしているだけだから。多分、「文筆家」はこれを読んで私を蔑むだろう。

では結局のところ何が言いたいのか。

noteでチンをフリフリしたいのだ。
そしてフリフリしている自分を見たいのだ。





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その都度思ったことや、様々な作品についての感想を書くと思う。恐らくこれを読むと思われる方々と趣味があまり一致しないため、興味を惹かないかもしれないが。しかし、基本的に真面目に書いている。この投稿自体そうだ。
拙い文章であるし、下手をすれば虚偽を書くかもしれないがご容赦いただきたい。読んでもらうに越したことはないが、結局自己満足の側面も大きいので読まなくてもよい。