加虐心

加虐心を持っている人間とは、悪人なのだろうか。

はたまた、誰にでもあるものだろうか。

加虐心。かぎゃくしん。

むごい仕打ちを加えること。いじめ苦しめること。


朝井リョウさんと高橋みなみさんのラジオ「ヨブンのこと」で、「私から出た加虐心」というテーマを扱っていた。

いつも聴いている番組というわけではない。初めて聴いた。

友人から、自分の投稿が番組内で紹介された、と連絡があったからだ。


その友人は、投稿が取り上げられたことを自慢するために連絡してきたわけではない。「自分の黒い部分を共有していいか。自分の中で正しくない自分が出てきたときに、腹立ったり悲しくなったりする」と言ってきたのだ。


ラジオの内容を要約すると、こんな感じ。

まず、朝井さんと高橋さんのトーク。「美人や成功している人の自信をへし折ってみたいという願望ってあるよね」という話。被制圧側に立ったことがなさそうな人に「制圧されてみろ」という暴力的な気持ちになる、みたいな。

で、そういう気持ちがあるものとして、「こういう虐を加えてやったぜ、ドヤ」っていうのではなく、そういう加虐心の原因はなんなのか、どう折り合いをつけながら人生を送っていけばいいのか考えよう、と。

朝井さん「(男女の)肉体差がなければ起こらなかった事件もあると思う。(男である)自分は半数の人(女性側)を制圧できる人間なんだなぁと思う。体としての加虐性を感じる、その時点でちょっと怖い」

他にも例を挙げて、店員と客、上司と部下など、立場の強弱から出る加虐心がありそうだと指摘する。

高橋さん「それ、気付ける人のが少ないでしょ」

自分の中の加虐心、加虐性に自覚的である人は、確かに少ないかもなぁと私も思う。


で、友人の投稿が紹介される。


「自分は物心ついた頃から正しく心優しい人でいようと努めてきた。普段、周りからは『優しい子』『いい子』などと言われる。でも、人には言えない真っ黒な部分がある。高校時代、クラスカースト上位の女の子がいた。自分を品のあるお嬢様としてブランディングしている子。でも自慢話がとても多く、周囲の人を見下すようないやらしさを感じていた。自分は劣等感を抱き、関わらないようにしていた。社会人になってから、ふと彼女の家族が問題を起こし社会的制裁を受けていることを知った。それから週に一度はそのニュースを検索し、コメント欄などを見るようになった。彼女がどんなに顔を歪めるだろうと想像するとほくそ笑んでしまう自分がいる。その問題と彼女が検索ワードで関連づけばいいと、無数にエンターキーを押すようなこともやった」

「こんなことをしてしまう自分の心情を考えてみた。そうすると、高校時代の劣等感よりも大きい理由があると思う。容姿と環境に恵まれた人気者の人間が、その自慢の礎を失ったときにどれだけ失望し恐怖するかと思うと、平凡である自分の人生が比較的幸せで全うであると思えるからだ。自分の真っ黒さに驚くし、こんなことやめたいと思っている。こういう自分とどう折り合いをつけていけばいいのか」


こんな投稿。すごいよね。


朝井さん「私もこういうことをやる。やめようと思ってもやめられない。でも忘れられる時期もある。直接的な何かをしそうになった時に、それはダメ、と思い出せれば」

高橋さん「今この段階で向き合っていかなきゃいけないと思えているということは、気付けているということ。加虐心が突然暴発しちゃう人は気を付けなければいけないよね」「私は加虐心という言葉をあまり知らなかったから。それを知れて、そういう気持ちが出てきたときにこれが加虐心なのかなって繋げられる言葉ができたのはよかった」


という反応で番組は締めくくられた。


友人は私から見てもとてもいい子。愛嬌があり、周囲への気遣いもしていて、第一印象ではこんなことを考えている子には映らないと思う。でも、彼女の人を見る目は鋭いと思っている。「〇〇さんってこういうところあるよね」という話をされてハッとしたことが何度かあった。

で、もしかしたら、「加虐心にどう折り合いをつけたらいいのか」という問いへの答えが番組内での話では物足りなかったから私に送ってきてくれたのかな、と思った。

自覚しているからこそ自制できるよね、というのは、それはそうなんだけど。きっと、その友人は「自分が衝動的に、直接的な加虐に至る」心配はそもそもしていないんじゃないかな。

自覚していて、そういう自分がいることを認めなければいけないこと自体が結構苦痛なんだよね。だっていい子でいたいから。周りに見られている部分だけじゃなくて、本当に芯から善い人間でいられたらいいのにって思うから。

でも、そうではない自分が出てくる。隠していれば多分周りには気付かれないけれど。自分でも認めたくない黒い自分。どう折り合いをつけたらいいんだろうね。私も分からないな。


「DEATH NOTE」という作品があったのを思い出した。全部読んでいないし、ぼんやりとした記憶だけど。確か、気に入らない人間、間違っていると思う人間の名前をデスノートに書くと、書かれた相手は死んでしまう。死亡時刻や死因まで指定できる。

あれも加虐心だよなぁ。しかも、自分で手を下さずに、陰でノートに名前を書くだけで実現できてしまう虐。

主人公はどういういきさつでデスノートを手にしたんだっけ。デスノートに名前を書く時、そして書いた相手の死を確認する時、どんな心情が描かれていたっけ。そういうことをする自分を疑ったり、罪悪感に苛まれたりしていたっけ?できればそういう部分があると救いがあるけれど。主人公が、自分が絶対に正義だと信じていたら…それはちょっと怖いなぁ。読み返してみたくなった。


私自身はどうか。加虐心。ここ数年はなかったかもしれない。でも、自分で気付いていないだけだとしたらそれは本当に恐ろしい。

SNSでは時々、剥き出しの加虐心が飛び交っているように思う。匿名性が剥き出しにさせている。攻撃的なことばかり言う人は、自分の中の加虐心に無自覚なのだろうか。そういうものが目に入った時、ぞわぞわする感覚はある。

加虐心が頭をもたげるきっかけは、「他者との比較」が結構な部分を占めていると思う。比較というのが、裏キーワードみたいになっていると思う。比べてしまうことは私もよくある。ここ数年はそれが加虐心に結びついていないけれど、ふとした時に加虐心が出てくる可能性は大いにある。

友人は言う。「こんな自分の黒い心を知らずに生きていけたらすごく楽なんだろうな」と。でも、一度自覚してしまったら無自覚の状態には絶対に戻れない。自覚できている友人の心は繊細で、やっぱりとてもいい子なんだと思う。

加虐心にどう折り合いをつけるのかという答えは、私も本当に分からない。でも、友人のことは他の人と比べてではなく一人の人間として魅力的だと思っている。打ち明けてくれた黒い部分も、客観的には意外と愛せる。私も考えは全然まとまっていないけれど、考えるきっかけを与えてくれてありがとうと言いたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?