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知性を置き去りに 2

昨夜の続き。

 エモいという言葉、現在においては音楽のみならず写真や文芸やその他メディア表現、あるいはもっと日常的なもの(インスタ的映えと似た感覚)で用いられているように思う。
 僕がエモみ(エモみ)を感じるときといえば、先の投稿で書いたような音に反応するとき、物語映像(特にアニメ作品)のストーリーに対して、あるいは演出に対して、自分の視覚世界の中に良い光や綺麗な空が飛び込んできとき。小説の中の描写に感じるときもあるが、小説を読む速度がかなり遅いためにその頻度はかなり低い。

氷結の缶を開ける。

 「エモい」の元となっている"Emotional"は主な意味として、「感情的な」となっている。Emotionに接尾辞-alがついて形容詞となった形である。
 Emotionは「感情」「感激」「興奮」そして「情動」。

 そもそも感情とは「喜怒哀楽」に代表されるような、言葉として言い表せるものとして理解される。
 「愛してる」を知らなかった少女はその感覚を、胸に手を当て「これを見たときのこういうの、何と言うのでしょう」と表現した。
 その「こういうの」こそ大事にしたいものであり、 先にEmotionの意味として最後に挙げた「情動」そのものである。
 情動、それは「高鳴る鼓動」や「空気が凍てつくような感覚(言い換えると寒気)」のような身体で感じる感覚、というよりは外界からの刺激に対する生理的な変化である。
 音を感じたり、言葉を感じたり、光景を感じたとき、身体がただならぬものと対峙したと判断し、変化を起こす。反射(熱いものに触ったときにとっさに手を引くようなアレ)のようなもの。
 その情動の感覚に対して、理性はなぜそれが起こったのか分析し、可能であれば名前をつけ、感情として理解する。

 言葉であれ音であれ映像(写真を含む視覚表現として扱います)であれ、理性で名を持つ感情として表現できない情動を引き起こしてくれるようなコンテンツこそを、私は、愛し、敬い、この命を持って享受できることが、幸せだなぁと日々思うわけです。

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