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bioを変えましたという長い長いご報告

約3年ぶりにTwitterのbioを変えました。というだけの話なのだが、せっかくなのでここ最近考えていた“推し”についても書いていきたいと思う。


どれだけ今、私がbioを更新することに対して緊張しているのか伝わっているだろうか。3年間変えていなかった事実からもわかるように私は元々保守的なタイプで、変化することや変化を受け容れることに対して人よりも抵抗がある方だ。大好きなはるちゃんに描いてもらったこの似顔絵のアイコンも3年くらい変えていないし、垢消しもツイ消しもしないので2015年の最古ツイートが今も見られる。アイコンも名前も気に入っているしすべてのSNSはこの2つで登録しているから、これらで私と認識している人もたくさんいると思う。また覚えてもらうのが大変だからという理由もあるのだが、自分が決められる範囲のことは納得するまでなかなか変えようと思えないだけなのだ。

Twitterのbioに関しては、アイコンや名前とは少し主旨が違う気がする。アイコンや名前がネット上の自己そのものなら、bioは自己表現の場である。正確には自己紹介の欄ではあるが私は「自分が1番推している人を紹介する欄」、つまり「推し紹介の欄」だと思っている。たとえば誰かが私のアカウントを開いたとき、誰を推しているのか一目でわかってほしい、できればその推しのアカウントに飛んでほしい、そしてあわよくばハマってくれたらいい、私きっかけで推しが少しでも人目に触れる、そのほんの少しの可能性のためにbioの最初には今1番推している人をメンションしていたいのだ。bioでの自己表現=推し紹介というのは私の主義と言っていい。

最後にbioを変えたのは夢眠ねむさんがでんぱ組を卒業し、アイドルを辞めた3年前。あまねちゃん単推しになったときだったと思う。ねむさんが芸能活動を終了させたなら、私が応援したい活動者(アイドル)はあまねちゃんしかいなくなった。だから私は1番最初にあまねちゃんとENGAG.INGのアカウントを書き、少しでも彼女や彼女の活動を知ってもらおうとしていたんだろう。またそうすることで今の最推しがあまねちゃんであることを主張したかったんだろう。



だけど1年前あまねちゃんが活動を終えたとき、bioを変える気はまったくなかった。ねむさんのときとは違って完全に推しがいなくなったから書き換える必要がなかったというのもある。でも一番大きかったのは、12月21日に日付が変わっても私自身が何も変わっていなかったからだと思う。あまねちゃんは卒業イベントで後悔なく活動を終えられるように最後まで努力してくれていたし、私もディアガとしてのあまねちゃんを見届けることができたと思う。それでもあまねちゃんが私にとっての大事な推しであることは変わらなかった。当然だけど関係がどんなに綺麗に断ち切られたとしても気持ちはそんな風に切り替えられるものではない。bio上だけでもいいから私はまだあまねちゃんを推していたかった。だから変えようとすら思わなかったしそのままアイドルオタクをやめよう、このアカウントも使わなくなるだろうと思っていた。
ただ、私が自分の中で賢明な部分だとも思うしずるい部分でもあると思っているところは、何においても「宣言をしない」ことだ。人間は変わる生き物だし自分が変わってしまうことも心底わかっているから、未来の自分がどうなるかなんて何も予想できない。変なプライドも高いから前言撤回するような状況もできれば避けたい。だから「オタクをやめる」とか「新しい推しは作らない」とか宣言めいたことは言えなかった。本当はそれくらいのことは言えてしまうくらい極端な気持ちではあったのだが、もしかしたらいつか応援したい人ができるかもしれない、そう思うと今後の自分を窮屈にさせるようなことは性格上どうしても言えなかった。


あまねちゃんが卒業してからの数ヶ月、しばらくは相変わらず推しという言葉をあまねちゃんに当てはめて使っていたが、だんだんと今までなら“推し”と書いていたところを“あまねちゃん”と書くようになった。今でもその違和感をうまく言語化することができないのだが、しいて言うならば、活動者ではない人のことを推しと呼び続けることに対する不相応さ、が一番近いと思う。違和感が確かなものになっていった理由としては、あまねちゃんが時々アイドル時代のアカウントでTwitterに顔を出してくれるからだと思う。あまねちゃんが近況を報告してくれるたびに、活動者ではない普通に働く可愛い女の子なんだなと少しずつ実感していったんだと思う。その実感は、あまねちゃんを大好きな気持ちにはまったく影響しなかったが、“推し”という言葉を使うということには影響したんだろう。もちろん今のあまねちゃんの生活を全力で応援する気持ちはめちゃくちゃある。でも自分の中でその生活の応援すること=推す、ではないのだなと思うようになった。と同時に、じゃあ私にとっての“推し”ってなんなんだろうと悩むようになってしまった。

2021年1月から空いた時間を埋めるようにTikTokを見始めた私は、おすすめに流れてきたひとつの動画から応援したいな見続けていたいなと思う人に出会う。今思えばその才能にほとんど一目惚れしていたのだが、私は激重メンヘラオタクなので才能だけでは推そうと決めたりはしない。応援したいと思って“いいね”だけするようにしている人もたくさんいるし、それで十分じゃないかと最初の頃は思っていた。でも初めてライブ配信を見にいったときに不思議と違和感がなかったというか、言葉の選び方も笑い方もファンとの絡み方も、しっくりくる好感しかなくてびっくりした。それから何度もライブに行ったがその好感度は下がることなく上がり続けた。才能があって人格者でファン想いで、振付や活動に対する気持ちを知れば知るほど非の打ち所がなくて、降参するような気持ちでもう全力でオクトさんを推すしかないじゃん、と覚悟を決めたのは9月になった頃だと思う。たぶん周りから見たら、え、まだ覚悟決めてなかったの?と思われるくらいオクトさんが好きだと言いふらしていたけど、本当に「最推しです」と宣言するのには半年以上の時間がかかるほど勇気が必要なことだった。でも今は、オクトさんを全力で推している日々が楽しくて幸せで、人を応援する喜びをまた噛みしめられていることに心から感謝している。


私にとって“推し”ってなんなんだろう、どういう存在なんだろうと考え続けた1年だった。私はその問いにやっと答えを見つけることができた。私は「その人が活動を終えるまで近くで全力で応援したいと思える人」を“推し”と呼びたいんだ。これが私の“推し”の定義だということがようやくわかった。あまねちゃんが大好きなことには変わりないけど、活動を終えたのを見届けた時点で推しきっていたんだなあとしみじみ思う。
1年経った今の私は、オクトさんが活動を終えるまで自分なりに精一杯推していきたいと思っている。だから私は、この節目の日にbioを変えることにした。そのことがいつか、誰かがオクトさんと出会うきっかけになりますようにという願いを込めて。

こんな風に気持ちを長々としたためることしかできない無力なオタクですが、これからも何卒よろしくお願いします。あまねちゃん、オクトさん、本当に心から大好きです!!

いろり

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