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通州事件の目撃者 佐々木テンさんの証言

元サイトは原本の一部の写真PDFで、見開き30ページに及ぶものです。読みやすくするためこちらに書き直しました。

…それが支那人の常套手段です。この白髪三千丈式で言えば 、南京大虐殺の実数は三十人に過ぎないのです。まさに嘘でかためた嘘の報道や、東京裁判のまやかしに日本人はよくもここまでたぶらかされたものだと思うものであります。


体験者の血の告白
そこでこの通州事件の生きた体験者佐々木テンさんの話を申しておきます。この佐々木テンさんという方は大分県の祖母山の近くに生まれた方だ ったのですが、いろんな事情で昭和七年に支那人の沈さんという男と結婚して大陸に渡り、いろんな変遷があ って昭和九年頃から通州に住むようにな っておったとのことです。そして通州事件を体験して、支那という国の恐ろしさに気付き、離婚し て昭和十五年には日本に帰り、あちらこちらを転 々としておったが 、晩年別府に居を移し、最後は大分県の南海部郡でその一生涯を終わっております。この佐々木テンさんは自らが体験した通州事件のあまりの恐ろしさに、日本に帰ったのちも口を喋 (つむ)んで語らず、通州におったということ も人には告げなかったのです 。
それが別府に住み着くということになって、西本願寺の別府別院によく参詣するようになりましたが、或るとき思いあまったような表情で次のような実に身の毛もよだつ通州事件の真実を語って
くれたのです。

 
支那人と結婚し支那に渡る
私は大分の山の奥に生まれたんです 。
すごく貧乏で小学校を卒業しないうちにすすめる人があって大阪につとめに出ることになりました。それが普通の仕事であればいいのですけど、女としては一番いやなつらい仕事だったので、故郷に帰るということもしませんでした。そしてこの仕事をしているうちに何度も人に騙されたんです。小学校も卒業していない私みたいなものはそれが当たり前だったかも知れません。それがもう二十歳も半ばを過ぎますと、私の仕事のほうはあまり喜ばれないようになり、私も仕事に飽きが来て、もうどうな ってもよいわいなあ、思い切 って外国 にでも行こうかと思っているとき、たまたま沈さんという支那人と出会ったのです。
この沈さんという人はなかなか面白い人でしょっちゅうみんなを笑わしていました。大阪には商売で来ているということでしたが、何回か会っているうち、沈さんが私に 「テンさん、私のお嫁さんにならないか」と申すのです。私は最初は冗談 と思っていたので 、「いいよ、いつでもお嫁さんになってあげるよ」と申しておったのですが、昭和七年の二月、沈さんが友人の楊さんという人を連れて来て、これから結婚式をすると言うんです。
そのときは全く驚きました。冗談冗談と思 っていたのに友人を連れて来て、これから結婚式というものですから、私は最初は本気にしなかったんです。
でも楊さんはすごく真面目な顔をして言うのです。沈さんは今まで何度もあなたに結婚して欲しいと申したそうですが、あなたはいつも、ああいいよと申していたそうです 。 それで沈さんはあなたと結婚することを真剣に考えて、結婚の準備をしていたのです。それで今日の結婚式はもう何もかも準備が出来ているのです。と楊さんは強い言葉で私に迫ります。
それでも私は雇い主にも相談しなくてはならないと申すと、雇い主も承知をして今日の結婚式には出ると申すし、少しばかりあった借金も全部沈さんが払っているというので、私も覚悟を決めて結 婚式場に行きました。支那の人達の結婚式があんなものであるということは初めてのことでしたので、大変戸惑いました。
でも、無事結婚式が終わりますと、すぐに支那に帰るというのです。 でも私も故郷の大分にも一度顔を出したいし、又結婚のことも知らせなくてはならない人もあると思ったのですが、沈さんはそれを絶対に許しません。自分と結婚したらこれか らは自分のものだから自分の言うことを絶対に聞けと申すのです。それで仕方ありません。私は沈さんに従ってその年の三月に支那に渡りました。


通州で日本兵と語る楽しみ
長い船旅でしたが、支那に着いてしばらくは天津で仕事をしておりました。私は支那語は全然出来ませんので大変苦労しましたが、でも沈さんが仲を取り持 ってくれましたので、さほど困ったことはありませんでした。そのうち片言混じりではあ ったけれど支那語もわかるようになってまいりましたとき、沈さんが通州に行くとい うのです。
通州は何がいいのですかと尋ねると、あそこには日本人も沢山 いて支那人もとてもいい人が多いから行くというので、私は沈さんに従って通州に行くことにしたのです。
それは昭和九年の初め頃だったのです。沈さんが言っていたとおり、この通州には日本人も沢山住んでいるし、支那人も日本人に対して大変親切だ ったのです。
しかしこの支那人の人達の本当の心はなかなかわかりません。今日はとてもいいことを言っていても明日になるとコロリと変わって悪口を 一杯言うのです。
通州では私と沈さんは最初学校の近くに住んでいましたが、この近くに日本軍の兵舎もあり、私はもっぱら日本軍のところに商売に行きました。私が日本人であるということがわかると、日本の兵隊さん達は喜んで私の持っていく品物を買ってく れました。
私は沈さんと結婚してからも、しばらくは日本の着物を着ることが多かったのですが、沈さんがあまり好みませんので天津の生活の終わり頃からは、支那人の服装に替えておったのです。すっかり支那の服装が身につき支那の言葉も大分慣れてきていましたがそれでもやっぱり日本の人に会うと懐かしいので日本語でしゃべるのです。遠い異国で故郷の言葉に出合う程嬉しいことはありません。日本の兵 隊さんの兵舎に行ったときも、日本の兵隊さんと日本語でしゃべるととても懐かしいし又嬉しいの です。私が支那人の服装をしているので支那人と思っていた日本の兵隊さんも、私が日本人とわかるととても喜んでくれました。そしていろいろ故郷 のことを話し合 ったものでした。
そして商売の方もうまく行くようになりました。沈さんがやっていた商売は雑貨を主としたものでしたが、必要とあらばどんな物でも商売をします。だから買う人 にとってはとても便利なんです。沈に頼んでおけば何でも手に入るということから 商売はだんだん繁盛するようになってまいりました。沈さんも北門のあたりまで行って日本人相手に大分商売がよく行くようになったのです。 この頃は日本人が多く住んでいたのは東の町の方でしたが私たちは沈さんと一緒に西の方に住んで いましたので、東の日本人とそうしょっちゅう会うということはありませんでした。
この通州という町にはその当時冀東防共自治政府がありました。これは般さんという人がつくった政府で軍隊も一万人以上居ったそうです。そして日本に対しては非常に親日的だったので、私も日本人であるということに誇りを持っていたのです。 


日本の悪口を言いふらす朝鮮人
ところが昭和十一年の春も終わろうとしていたとき、沈さんが私にこれからは日本人ということを他の人にわからないようにせよと申しますので、私が何故と尋ねますと、支那と日本は戦争をする。そのとき私が日本人であるということがわかると大変なことになるので、日本人であるという ことは言わないように、そして日本人とあまりつきあってはいけないと申すのです。
私は心の中に不満が 一杯だ ったけど沈さんに逆らうことは出来ません。それで出来るだけ沈さんの言うことを聞くようにしました。顔見知りの兵隊さんと道で会うとその兵隊さんが、沈さん近頃は軍の方にこないようにな ったが何故と尋ねられる とき程つらいことはありませんでした。
そのうちにあれだけ親日的であった通州という町全体の空気がだんだん変わって来たのです。何か日本に対し又日本人に対してひんやりしたものを感じるようになってまいりました。沈さんが私に 日本人であるということが人にわからないようにと言った意味が何となくわかるような気がしたものでした。そして何故通州という町がこんなに日本や日本人に対して冷たくなっただろうかということをいろいろ考えてみましたが、私にははっきりしたことがわかりませんでした。只、朝鮮人の人達が盛んに日本の悪口や、日本人の悪口を支那 の人達に言いふらしているのです。 私が日本人であるということを知らない朝鮮人は、私にも日本という国は悪い国だ、朝鮮を自分の領土にして朝 鮮人を奴隷にしていると申すのです。 そして日本 は今度は支那を領土にして支那人を奴隷にすると 申すのです。だからこの通州から日本軍と日本人を追い出さなくてはならない。 いや日本軍と日本人は皆殺しにしなくてはならないと申すのです。 私は思わずそんなんじゃないと言おうとしましたが、私がしゃべると日本人ということがわかるので黙って朝鮮人の言うことを聞いておりました。
そこへ沈さんが帰って来て朝鮮人から日本の悪口を一杯聞きました。すると沈さんはあなたたちも日本人じゃないかと申したのです。
するとその朝鮮人は顔色を変えて叫びました。日本人じゃない朝鮮人だ、朝鮮人は必ず日本に復讐すると申すのです。 そして安重根という人の話を滑々と語りました。伊藤博文という大悪人を安重根先生が殺した。我々も支那人と 一緒に日本人を 殺し、日本軍を全滅させるのだと申すのです。
私は思わずぞっとせずにはおられませんでした。なんと怖いこと言う朝鮮人だろう。こんな朝鮮人がいると大変なことになるなあと思いました。沈さんは黙 ってこの朝鮮人の言うことを聞いて最後まで 一言もしゃべりませんでした。こんなことが何回も繰り返されているうちに、町の空気がだんだん変わ ってくるようになってまいったのです。
でもそんなことを日本の軍隊や日本人は全然知らないのです。私は早くこんなことを日本人に知らせねばならな いと思うけれど'沈さんは私が日本人と話すことを 厳重に禁止して許しません 。 私の 心 の中 に は も や も や と し た も の が だ ん だ ん 大きくなって来るようでした。
道を歩いているとき日本の兵隊さんに会うと 「注意して下さい」と言いたいけれ ど、どうしてもその言葉が出てまいりません。目で 一生懸命合図をするけど日本の 兵隊さんには通じません。私が日本人であるということは通州で知 っているのは沈 さんの友人二、三人だけになりました。日本の兵隊さん達もだんだん内地に帰 ったり他所 へ転属にな ったりしたので、殆ど私が日本人であるということを知らないよ うになりました。


信用できない保安隊             そうしているうちに通州にいる巽東防共自治政府の軍隊が 一寸変わ ったように思われる行動をするようになってまいりました。大体 この軍隊は正式 の名称は保安隊 といっておりましたが、町の人達は軍隊と申してお ったのです。この町の保安隊は 日本軍ととても仲良くしているように見えていましたが、蒋介石が共産軍と戦うようになってしばらくすると、 この保安隊の軍人の中から共産軍が支那を立派にする のだ、蒋介石というのは日本の手先だと、そっとささやくように言う人が出てまいりました。その頃から私は保安隊の人達があまり信用出来ないようにな ってまいったのです。
行商に歩いていると日本人に出会います。私は沈さんから言われているのであま り口をきかないようにしていました。すると日本人が通 った後ろ姿を見ながら朝鮮人が 「あれは鬼だ、人殺しだ、あんな奴らはいつかぶち殺してやらねばならない」 と支那人達に言うのです。
最初の頃は支那人達も朝鮮人達の言うことをあまり聞きませんでしたが、何回も何回も朝鮮人が こんな ことを繰り返して言うと、支那人達 の表情 の中にも何か険し いものが流れるようにな ってまいりました。特に保安隊の軍人さん達がこの朝鮮人
と同じ意味のことを言うようにな ってまいりますと、もう町の表情がす っかり変 わ ってしま ったように思えるようになりました。
私はあまり心配だからあるとき沈さんにこんな町の空気を日本軍に知らせてやり たいと申しますと、沈さんはび っくりしたようにそんなことは絶対にいけない、絶 対 に し ゃ べ った ら い け な い と 顔 色 を 変 え て 何 度 も 言 う の で す 。 そ れ で 私 は と う と う 日本軍の人たちにこうした町の空気を伝えることが出来なくな ってしま ったのです。


警告の投げ紙もむなしく
それが昭和十一年の終わり頃になるとこうした支那人達の日本に対しての悪感情 は更に深くな ったようです。それは支那のあちこちに日本軍が沢山駐屯するように な ったからだと申す人達もおりますが、それだけではな いようなものもあるように 思われました。
私は沈さんには悪かったけれど、紙 一杯に委しくこうした支那人達の動き'朝鮮 人達 の動きがあることを書きました。そして最後に用心して下さ いと いうことを書いておきました。 この紙を日本軍の兵舎の中に投げ込みました。 これなら私がしゃ
べらなくても町の様子を日本軍が知ることが出来ると思 ったからです。こうしたことを二回、三回 と続けてしてみましたが 、日本軍の兵隊さん達には何も変わったことはありませんでした。
これでは駄目だと思ったので、私はこの大変険悪な空気になっていることを何とかして日本軍に知らせたいと思って、東町の方に日本人の居住区があり、その中でも近水棲というところにはよく日本の兵隊さんが行くということを聞いたので、この近水楼の窓口のほうにも三回程この投紙をしてみたのです。でも何も変わったことはありません。
これは 一つには私が小学校も出ていないので、字があまり上手に書けないので、下手な字を見て信用してもらえなかったかも知れません。このとき程勉強していないことの哀れさを覚えたことはありませんでした。 


「日本人皆殺し 」「日本人は悪魔だ 」の声
昭和十二年になるとこうした空気は尚 一層烈しいものになったのです。そして上海で日本軍が敗れた、済南 で日本軍が敗れた'徳州でも日本軍は敗れた、支那軍が 大勝利だというようなことが公然と言われるようになってまいりました。
日に日に 日本に対する感情は悪くなり、支那人達の間で、「日本人皆殺し、日本人ぶち殺せ」という議論が高まってまいりました。その当時のよく言われた言葉に、「日本人は悪魔だ。その悪魔を懲らしめるのは支那だ」という言葉でした。 私は こんな言葉をじ っと唇をかみしめながら聞いていなくてはならなかったのです。
支那の子供達が「悪鬼やぶれて悪魔が亡ぶ」という歌を歌い、その悪鬼や悪魔を支那が滅ぼすといった歌でしたが、勿論この悪鬼悪魔は日本だったのです。こんな耐え難い日本が侮辱されているという心痛に毎日耐えなくてはならないことは大変 な苦痛でした。
しかしこんなとき 沈さんが嵐はまもなくおさまるよ、じっと我慢しなさいよと励ましてくれたのが唯一の救いでした。そしてこの頃になると沈さんがよく大阪の話しをしてくれました。私も懐かしいのでその沈さんの言葉に相槌を打って一晩中語 り明かしたこともありました。
三月の終わりでしたが、沈さんが急に日本に行こうかと言い出したのです。私はび っくりしました。それはあれ程私に日本人としゃべるな、日本人ということを忘れろと申していた沈さんが何故 日本に行こうか、大阪に行こうかと言い出したか といえば、それ程当時の通州の、いや支那という国全体が日本憎しという空気で一杯になっておったからだろうと思います。
しかし日本に帰るべく沈さんが日本の状況をいろいろ調べてみると、日本では支那撃つべし、支那人は敵だという声が充満していたそうです。そんなことを知った沈さんが四月も終わりになって 「もうしばらくこの通州で辛抱してみよう、そしてどうしても駄目なら天津へ移ろう」と言い出しました。それで私も沈さんの言うことに従うことにしたのです。
何か毎日が押しつけられて、押し殺されるような出来事の連続でしたが、この天津に移ろうという言葉で幾分救われたようになりました。来年は天津に移るということを決めて二人で又商売に励むことにしたのです。
この頃の通州ではあまり商売で儲かるということは出来ないような状況になっておりました。しかし儲かることより食べて行くことが第一だから、兎に角食べるために商売しようということになりました。そしてこの頃から私は沈さんと一緒に通州の町を東から西、北から南へと商売のため歩き回ったのです。 


日本人の支那人に対する侮蔑的態度
日本人の居留区にもよく行きました。 この日本人居留区に行くときは必ず沈さん が 一緒について来るのです。そして私が日本人の方と日本語で話すことを絶対に許しませんでした。私は日本語 で話す ことが大変嬉し いのです。 でも沈さんはそれを 許しません。それで日本人の居留区で日本人と話すときも支那語で話さなくてほならないのです 。 支那語で話していると日本の人はやはり私を支那人として扱うのです。 このときはとても悲しかやったのです。
それと支那人として日本人と話しているうちに特に感じたのは、日本人が支那人 に対して優越感を持 っているのです。ということは支那人に対して侮蔑感を持 っていたということです。相手が支那人だから日本語はわからないだろうということで、日本人同士で話している言葉の中によく 「チャンコロ」だとか、「コンゲドウ」とかいう言葉が含まれていましたが、多くの支那人が言葉ではわからなくとも肌でこうした日本人の侮蔑的態度を感じておったのです。 だからやはり日本人に対しての感情がだんだん悪くな って来るのも仕方なかったのではないかと思われます。このことが大変悲しかったのです。私はどんなに日本人から侮蔑されてもよいから、この通州に住んでいる支那人に対してはどうかあんな態度はとってもらいたくないと思ったのです。でも居留区にいる日本人は日本の居留区には強い軍隊がいるから大丈夫だろうという傲りが日本人の中に見受けられ るようになりました。
こうした日本人の傲りと支那人の怒りがだんだん昂じて来ると、やがて取り返しのつかないことになるということを沈さんは一番心配していました。
沈さんも大阪にいたのですから、日本人に対して悪い感情はないし、特に私という日本人と結婚したことで沈さんも半分は日本人の心を持っていたのです。それだけにこの通州の支那人の日本人に対しての反日的感情の昂ぶりには誰よりも心を痛
めておったのです。一日の仕事が終わって家に帰り食事をしていると、「困った、困った、こんなに日本人と支那人の心が悪くなるといつどんなことが起こるかわからない」と言うのです。
そして支那人の心がだんだん悪くなって来て、日本人の悪口を言うようになると、あれ程日本と日本人の悪口を言っていた朝鮮人があまり日本の悪口を言わないようになってまいりました。いやむしろ支那人の日本人へ対しての怒りがだんだんひどくなって来ると朝鮮人達はもう言うべき悪口がなくな ったのでしょう。それと共にあの当時は朝鮮人で日本の軍隊に入隊して日本兵になっているものもあるので、朝鮮人達も考えるようになって来たのかも知れません。


銃剣と青竜刀を持った学生部隊
しかし五月も終わり頃になって来ると、通州での日本に対する反感はもう極点に達したようにな ってまいりました。
沈さんはこの頃になると私に外出を禁じました。今までは沈さんと 一緒なら商売 に出ることが出来たのですが、もうそれも出来ないと言うのです。そして「危ない」「危ない 」と申すのです。それで私が沈さんに何が危ないのと申すと、日本人が殺されるか、支那人が殺されるかわからない、い つでも逃げることが出来るように準備をしておくようにと申すのです。
六月になると何となく鬱陶しい日々が続 いて、家 の中にじ っとしていると何か不安が一層増して来るようなことで、とても不安です。だからといって逃げ出すわけにもまいりません。そしてこの頃になると 一種異様と思われる服を着た学生達が通州の町に集まって来て、日本撃つべし、支那の国から日本人を追い出せと町中を大きな声で叫びながら行進をするのです。
それが七月になると 「日本人皆殺し」「日本人は人間じゃない」「人間でない日本人は殺してしまえ」というような言葉を大声で喚きながら行進をするのです。鉄砲を持っている学生もいましたが、大部分の学生は銃剣と青竜刀を持っていました。
そしてあれは七月の八日の夕刻のことだ ったと思います。支那人達が大騒ぎをしているのです。何 であんなに大騒ぎをしているのかと沈さんに尋ねてみると、北京の近くで日本軍が支那軍から攻撃を受けて大敗をして、みんな逃げ出したので支那 人達があんなに大騒ぎをして喜んでいるのだよと申すのです。私はびっくりしました。そしていよいよ来るべきものが来たなあと思いました。でもニ、三日すると北京の近くの盧構橋で戦争があ ったけれど、日本軍が負けて逃げたが又大軍をもって攻撃をして来たので大戦争になっていると言うのです。
こんなことがあったので七月も半ばを過ぎると学生達と保安隊の兵隊が一緒になって行動をするので、私はいよいよ外に出ることが出来なくなりました。
この頃でした。上海で日本人が沢山殺されたという噂がささやかれて来ました。 済南でも日本人が沢山殺されたということも噂が流れて来ました。 蒋介石が二百万の大軍をもって日本軍を打ち破り、日本人を皆殺しにして朝鮮を取り、日本の国 も占領するというようなことが真実のように伝わ って来ました。
この頃になると沈さんはそわそわとして落ち着かず、私にいつでも逃げ出せるようにしておくようにと申すようになりました。私も覚悟はしておりましたので、身の回りのものをひとまとめにしていて、いつどんなことがあっても大丈夫という備
えだけはしておきました。
この頃通州にいつもいた日本軍の軍人達は殆どいなくなっていたのです。どこかへ戦争に行っていたのでしょう。


七月二十九日未明 銃撃戦始まる
七月二十九日の朝、まだ辺りが薄暗 いときでした。突然私は沈さんに烈しく起 こされました。大変なことが起こったようだ。早く外に出ようと言うので、私は風呂敷二つを持って外に飛び出しました。沈さんは私の手を引いて町のあちこちに逃げはじめたのです。
町には一杯人が出ておりました。そして日本軍の兵舎の方から猛烈な銃撃戦の音が聞こえて来ました。でもまだ辺りは薄暗いのです。何がどうなっているのやらさっぱりわかりません。只、日本軍兵舎の方で炎が上がったのがわかりました。
私は沈さんと一緒に逃げながら「きっと日本軍は勝つ。負けてたまるか」という思いが胸一杯に拡がっておりました。でも明るくなる頃になると銃撃戦の音はもう聞こえなくなってしまったのです。私はきっと日本軍が勝ったのだと思っていました。
それが八時を過ぎる頃になると、支那人達が 「日本軍が負けた。日本軍は皆殺しだ 」 と騒いでいる声が聞こえて来ました。突然私の頭の中にカーと血がのぼるような感じがしました。最近はあまり日本軍兵舎には行かなかったけれど、何回も何十 回も足を運んだことのある懐かしい日本軍兵舎です。飛んでいって日本の兵隊さんと一緒に戦 ってやろう。もう私はどうなってもいいから最後は日本の兵隊さんと一緒に死んでやろうというような気持ちになったのです。 それで沈さんの手を振りほどいて駆け出そうとしたら、沈さんが私の手をしっかり握って離さないでいましたが、沈さんのその手にぐんと力が入りました。そして「駄目だ、駄目だ、行ってはいけない」と私を抱きしめるのです。それでも私が駆け出そうとすると沈さんがいきなり私の頬を烈しくぶったのです。
私は思わず ハッとして自分にかえったような気になりました。 ハッと自分にかえった私を抱きかかえるようにして家の陰に連れて行きました。そして沈さんは今ここで私が日本人だということがわかったらどうなるかわからないのか、と強く叱るのです。それで私も初めてああそうだったと気付 いたのです。
私は沈さんと結婚して支那人になっておりますが、やはり心の中には日本人であることが忘れられなかったのです。でもあの時誰も止める者がいなかったら、日本軍兵舎の中に飛び込んで行ったことでしょう。それは日本人の血というか、九州人の血というか、そんなものが私の体の中に流れ ていたに違いありません。それを沈さんが止めてくれたから私は助かったのです。

日本人居留区から流れる血の匂い
八時を過ぎて九時近くになって銃声はあまり聞こえないようになったので、これで恐ろしい事件は終わったのかとやや安心しているときです。誰かが日本人居留区で面白いことが始まっているぞと叫ぶのです。私の家から居留区までは少し離れて いたのでそのときはあまりピンと実感はなかったのです。
そのうち誰かが日本人居留区では女や子供が殺されているぞというのです。何かぞーっとする気分になりましたが、恐ろしいものは見たいというのが人間の感情です。私は沈さんの手を引いて日本人居留区の方へ走りました。そのとき何故あんな 行動に移ったかというと、それははっきり説明は出来ません。只何というか、本能的なものではなかったかと思われます。沈さんの手を引いたというのもあれはやは り夫婦の絆の不思議と申すべき でしょうか。
日本人居留区が近付くと何か一種異様な匂いがして来ました。それは先程銃撃戦があった日本軍兵舎が焼かれているのでその匂いかと思いましたが、それだけではありません。何か生臭い匂いがするのです。血の匂 いです。人間 の血の匂いがし て来るのです。
しかしここまで来るともうその血の匂 いが当たり前だと思われるようになっておりました。沢山の支那人が道路の傍らに立っております。そしてその中にはあの黒い服を着た異様な姿の学生達も交じっています。 いやその学生達は保安隊の兵隊と
一緒になっているのです。


娘をかばう父親を惨殺
そのうち日本人の家の中から一人の娘さんが引き出されて来ました。
十五才か十六才と思われる色の白い娘さんでした。その娘さんを引き出して来たのは学生でした。そして隠れているのを見つけてここに引き出したと申しております。その娘さんは恐怖のために顔が引きつっております。体はぶるぶると震えておりました。
その娘さんを引き出して来た学生は何か猫が鼠を取ったときのような嬉しそうな顔をしておりました。そしてすぐ近くにいる保安隊の兵隊に何か話しておりました。保安隊の兵隊が首を横に振ると学生はニヤリと笑ってこの娘さんを立ったまま平手打ちで五回か六回か殴りつけました。そしてその着ている服をいきなりバリバリと破ったのです。
支那でも七月と言えば夏です。暑いです。薄い夏服を着ていた娘さんの服はいとも簡単に破られてしまったのです。すると雪のように白い肌があらわになってまいりました。
娘さんが何か一生懸命この学生に言っております。しかし学生は二ヤニヤ笑うだ けで娘さんの言う ことに耳を傾けようとはしません。娘さんは手を合わせてこの学生に何か一生懸命懇願しているのです。学生の側には数名の学生と保安隊の兵隊が 集まっていました。そしてその集ま った学生達や保安隊の兵隊達は目をギラギラさせながら、この学生が娘さんに加えている仕打ちを見ているのです。
学生はこの娘さんをいきなり道の側に押し倒しました。そして下着を取 ってしま いました。娘さんは 「助けてー」と叫びました。
とそのときです。一人の日本人の男性がパアッと飛び出して来ました。そしてこの娘さんの上に覆 い被さるように身を投げたのです。恐らくこの娘さんのお父さんだったでしょう。
すると保安隊の兵隊がいきなりこの男の人の頭を銃の台尻で力 一杯殴りつけたのです。何かグシャッというような音が聞こえたように思います。頭が削られたのです。でもまだこの男の人は娘さんの身体の上から離れようとしません。保安隊の兵
隊 が 何 か 言 いながらこの男の人を引き離しました。 娘さんの顔にはこのお父さんであろう人の血が 一杯流れておりました。この男の人を引き離した保安隊の兵隊は再び銃で頭を殴りつけました。パーツと辺り 1面に 何かが飛び散りました.恐らく この男の人の脳漿だったろうと思われます。
そして二、三人の兵隊と二、三人の学生がこの男の人の身体を蹴りつけたり踏みつけたりしていました。服が破けます。肌が出ます。血が流れます。そんなことお構いなしに踏んだり蹴ったりし続けています。 
そのうちに保安隊の兵隊の一人が銃に付けた剣で腹の辺りを突き刺しました。血がパーッと飛び散ります。その血はその横に気を失ったように倒されている娘さんの身体の上にも飛び散ったのです。
腹を突き刺しただけではまだ足りないと思ったのでしょうか。今度は胸の辺りを又突き刺します。それだけで終わるかと思っていたら、まだ足りな いのでしょう。又腹を突きます。胸を突きます。何回も何回も突き刺すのです。 沢山の支那人が見ているけれど「ウーン」とも「ワー」とも言いません。この保安隊の兵隊のすることをただ黙 って見ているだけです。その残酷さは何に例えていいかわかりませんが、悪鬼野獣と申しますか。暴虐無惨と申しましょうか。あの悪虐を言い表す言葉はないように思われます。
この男の人は多分この娘さんの父親であるだろうが、この屍体を三メートル程離れたところまで丸太棒を転がすように蹴転がした兵隊と学生達は、この気を失っていると思われる娘さんのところにやってまいりました。


女性に加えられた陵辱
この娘さんは既に全裸になされております。そして恐怖のために動くことが出来ないのです。その娘さんのところまで来ると下肢を大きく拡げました。そして陵辱 をはじめようとするのです。支那人とは言へ、沢山の人達が見ている前で人間最低 のことをしようというのだから、 これはもう人間のすることとは言えません。
ところがこの娘さんは今まで 一度もそうした経験がなかったからでしょう。どうしても陵辱がうまく行かないのです。
すると三人程の学生が拡げられるだけこの下肢を拡げるのです。そして保安隊の兵隊が持っている銃を持って来てその銃身の先でこの娘さんの陰部の中に突き込むのです。こんな姿を見ながらその近くには何名もの支那人がいるのに止めようともしなければ、声を出す人もおりません。ただ学生達のこの惨行を黙って見ているだけです。 私と沈さんは二十メートルも離れたところに立っていたのでそれからの惨行の詳細を見ることは出来なか ったのですが、と言うよりとても目を開けて見ておることが出来なかったのです。私は沈さんの手にしっかりとすがっておりました。目をしっかり つぶっておりました。
するとギャーッという悲鳴とも叫びとも言えない声が聞こえました。私は思わず びっくりして目を開きました。


するとどうでしょう。保安隊 の兵隊がニタニタ笑 いながらこの娘さんの陰部を挟り取っているのです。何ということをするのだろうと私の身体はガタガタと音を立てる程震えました。その私の身体を沈さんがしっかり抱きしめてくれました。見てはいけない。見まいと思うけれど目がどうしても閉じられないのです。
ガタガタ震えながら見ているとその兵隊は今度は腹を縦に裂くのです。それから剣で首を切り落としたのです。その首をさっき捨てた男の人の屍体のところにポイと投げたのです。投げられた首は地面をゴ ロゴ ロと転がって男の人の屍体の側で止 まったのです。
若しこの男の人がこの娘さんの親であるなら、親と子供がああした形で一緒に なったのかなあと私の頭のどこかで考えていました。そしてそれはそれでよかったのだと思ったのです。 しかしあの残虐極まりない状況を見ながら何故あんなことを考えたのか私にはわかりませんでした。そしてこのことはずーっとあとまで私の頭の中に残っていた不思議のことなのです。 

日本人だと気取られなかった理由
私は立っていることが出来ない程疲れていました。そして身体は何か不動の金縛りにされたようで動くことが出来ません。この残虐行為をじっと見つめていたのです。腹を切り裂かれた娘さんのおなかからはまだゆ っくり血が流れ出しております。 そしてその首はないのです。何とも異様な光景です。想像も出来なかった光景に私の頭は少し狂ってしまったかも知れません。ただこうした光景を自分を忘れてじっと見ているだけなのです。
そうしたとき沈さんが 「おい」と抱きしめていた私の身体を揺すりました。私は ハッと自分にかえりました。すると何か私の胃が急に痛み出しました。吐き気を催したのです。
道端 にしゃがみ込んで吐こうとするけれど何も出 てきません。沈さんが私の背を摩ってくれるけれど何も出て来ないのです。でも胃の痛みは治まりません。「うーん」と唸っていると沈さんが 「帰ろうか」と言うのです。私は家に早く帰りたいと思いながら首は横に振っていたのです。
怖いもの見たさという言葉がありますが、このときの私の気持ちがこの怖いもの見たさという気持ちだったかも知れません。私が首を横に振るので沈さんは仕方なくでしょう私の身体を抱きながら日本人居留区の方に近付いて行ったのです。 
私の頭の中はボーとしているようでしたが、あの残酷な光景は 一つ一つ私の頭の中に刻みつけられたのです。私は沈さんに抱きかかえられたままでしたが、このことが異様な姿の学生や保安隊の兵隊達から注目されることのなかった大きな原因で
はないかと思われるのです。 若し私が沈さんという人と結婚はしていても日本人だということがわかったら、きっと学生や兵隊達は私を生かしてはいなかった筈なのです。しかし支那人の沈さんに 抱きかかえられてよぼよぼと歩く私の姿の中には学生や兵隊達が注目する何ものもなかったのです。 だから黙って通してくれたと思います。


「数珠つなぎ 」 悪魔を超える暴虐
日本人居留区に行くともっとも っと残虐な姿を見せつけられました。殆どの日本人は既に殺されているようでしたが、学生や兵隊達はまるで狂った牛のように日本人を探し続けているのです。あちらの方で 「日本人がいたぞ」という大声で叫ぶも のがいるとそちらの方に学生や兵隊達がワーッと押し寄せて行きます。私も沈さんに抱きかかえられながらそちらに行ってみると、日本人の男の人達が 五、六名兵隊達の前に立たされています。そして一人又 一人と日本の男の人が連れられて来ます。十名程になったかと思うと学生と兵隊達が針金を持って来て右の手と左の手を指のところでし っかりくくりつけるのです。そうして今度は銃に付ける剣を取り出すとその男の人の掌をグサ ッと突き刺して穴を開けようとするのです。
痛いということを通り越しての苦痛に大抵の日本の男の人達が「ギャーッ」と泣き叫ぶのです。とても人間のすることではありません。悪魔でもこんな無惨なことはしないのではないかと思いますが、支那の学生や兵隊はそれを平気でやるのです。
いや悪魔以上というのは、そんな惨ったらしいことしながら学生や兵隊達は二夕二タと笑っているのです。日本人の常識では到底考えられないことですが、日本人の常識は支那人にとっては非常識であり、その惨ったらしいことをすることが支那人の常識だったのかと初めてわかりました。 集められた十名程の日本人の中にはまだ子供と思われる少年もいます。そして、ハ十才を越えたと思われる老人もいるのです。支那では老人は大切にしなさいと言われておりますが、この支那の学生や兵隊達にとっては日本の老人は人間として扱わな いのでしょう。
この十名近くの日本の男の人達の手を針金でくくり、掌のところを銃剣で挟りとった学生や兵隊達は今度は大きな針金を持って来てその掌の中に通すのです。十人の日本の男の人が数珠繋ぎにされたのです。
こうしたことをされている間日本の男の人達も泣 いたり喚いたりしていました が、その光景は何と も言い様のない異様なものであり、五十年を過ぎた今でも私の頭の中にこびりついて離れることが出来ません。
そしてそれだけではなかったのです。学生と兵隊達はこの日本の男の人達の下着を全部取ってしまったのです。そして勿論裸足にしております。そ の中で一人の学生が青竜刀を持っておりましたが、二十才前後と思われる男のところに行くと足を拡げさせました。そしてその男の人の男根を切り取ってしまったのです。
この男の人は「助けてー」と叫んでいましたが、そんなことはお構いなしにグサリと男根を切り取ったとき、この男の人は 「ギャッ」と叫んでいましたがそのまま気を失ったのでしょう。でも倒れることは出来ません。他の日本の男の人と数珠繋
ぎになっているので倒れることが出来ないのです。学生や兵隊達はそんな姿を見て「フッフッ 」 と笑っているのです。
私は思わず沈さんにしがみつきました。沈さんも何か興奮しているらしくさっきよりもしっかり私の身体を抱いてくれました。そして私の耳元でそっと囁くのです。「黙って、ものを言ったらいかん。」と言うのです。勿論私はものなど言える筈もありませんから頷くだけだったのです。そして私と沈さんの周囲には何人もの支那人達がいました。そしてこうした光景を見ているのですが、誰も何も言いません。氷のような表情というのはあんな表情でしょうか。兵隊や学生達がニタニタと笑っているのにこれを見守っている一般の支那人は全く無表情で只黙って見ているだけなのです。しかしようもまあこんなに 沢山支那人が集まったものだなあと思いました。そして沢山集まった支那人達は学 生や兵隊のやることを止めようともしなければ兵隊達のようにニタニタするでもなし、只黙って見ているだけです。勿論これはいろんなことを言えば同じ支那人ではあっても自分達が何をされるかわからないという恐れもあってのことでしょうが、 全くこうした学生や兵隊のすることを氷のように冷ややかに眺めているのです。これも又異様のこととしか言いようがありません。こんな沢山集まっている支那人達が少しづつ移動しているのです。この沢山の人の中には男もいます。女もいます。私もその支那人達の女の一人として沈さんと一緒に人の流れに従って日本人居留区の方へ近付いたのです。


旭軒で起こった陵辱と惨殺          日本人居留区に近付いてみるといよいよ異様な空気が感ぜられます。 旭軒という食堂と遊郭を一緒にやっている店の近くまで行ったときです。日本の女の人が二人保安隊の兵隊に連れられて出て来ました。二人とも真っ青な顔色でした。一人の女の人は前がはだけておりました。この女の人が何をされたのか私もそうした商売をしておったのでよくわかるのです。しかも相当に乱暴に扱われたということは前がはだけている姿でよくわかったのです。可哀想になあとは思ってもどうすることも出来ません。どうしてやることも出来ないのです。言葉すらかけてやることが出来ないのです。

二人の女の人のうちの一人は相当頑強に抵抗したのでしょう。頬っぺたがひどく腫れあがっているのです。いやその一部からは出血さえしております。髪はバラバ ラに乱れているのです。とてもまともには見られないような可哀想な姿です。 その二人の女の人を引っ張って来た保安隊の兵隊は頬っぺたの腫れあがっている女の人をそこに立たせたかと思うと行ているものを銃剣で前の方をパッと切り開いたのです。

女の人は本能的に手で前を押さえようとするといきなりその手を銃剣で斬りつけ ました。左の手が肘のところからばっさり切り落とされたのです。しかしこの女の人はワーンともギャーッとも言わなかったのです。只かすかにウーンと唸ったように聞こえました。そしてそこにバッタリ倒れたのです。すると保安隊の兵隊がこの女の人を引きずるようにして立たせました。そして銃 剣で胸のあたりを力一杯突き刺したのです。この女の人はその場に崩れ落ちるように倒れました。すると倒れた女の人の腹を又銃剣で突き刺すのです。 私は思わず「やめて!」と叫びそうになりました。その私を沈さんがしっかり抱きとめて「駄目、駄目」と耳元で申すのです。私は怒りと怖さで体中が張り裂けんばかりでした。 そのうちにこの女の人を五回か六回か突き刺した兵隊がもう一人の女の人を見てニヤリと笑いました。そしていきなりみんなが見ている前でこの女の人の着ているものを剥ぎ取ってしまったのです。そしてその場に押し倒したかと思うとみんなの見ている前で陵辱をはじめたのです。

人間の行為というものはもっと神聖でなくてはならないと私は思っています。それが女の人を保安隊の兵隊が犯している姿を見ると、何といやらしい、そして何と汚らわしいものかと思わずにはおられませんでした。一人の兵隊が終わるともう一人の兵隊がこの女の人を犯すのです。そして三人程の兵隊が終わると次に学生が襲いかかるのです。何人もの何人もの男達が野獣以上に汚らわしい行為を続けているのです。 私は沈さんに抱きかかえられながらその姿を遠い夢の中の出来事のような思いで 見続けておりました。それが支那の悪獣どもが充分満足したのでしょう。何人か寄っていろいろ話しているようでしたが、しばらくすると一人の兵隊が銃をかまえてこの女の人を撃とうとしたのです。さすがに見ていた多くの支那人達がウォーという唸るような声を出しました。この多くの支那人の陰りに恐れたのか兵隊二人と学生一人でこの女の人を引きずるように旭軒の中に連れ去りました。そしてしばらくするとギャーという女の悲鳴が聞こえて来たのです。恐らくは連れて行った兵隊と学生で用済みになったこの日本の女の人を殺したものと思われます。しかしこれを見ていた支那人達はどうすることも出来ないのです。私も沈さん もどうすることも出来ないのです。もうこんなところにはいたくない。家に帰ろうと思ったけれど沈さんが私の身体 をしっかり抱いて離さないので、私は沈さんに引きずられるように日本人居留区に入ったのです。


最期に念仏を唱えた老婆           旭軒と近水楼の間にある松山楼の近くまで来たときです。 一人のお婆さんがよろけるように逃げて来ております。するとこのお婆さんを追っかけてきた学生の一人が青竜刀を振りかざしたかと思うといきなりこのお婆さ んに斬りかかって来たのです。お婆さんは懸命に逃げようとしていたので頭に斬りつけることが出来ず、左の腕 が肩近くのところからポロリと切り落とされました。お婆さんは仰向けに倒れまし た。学生はこのお婆さんの腹と胸とを一刺しづつ突いてそこを立ち去りました。 誰も見ていません。私と沈さんとこのお婆さんだけだったので、私がこのお婆さんのところに行って額にそっと手を当てるとお婆さんがそっと目を開きました。そして、「くやしいと申すのです。「かたきをとって」とも言うのです。 私は何も言葉は出さずにお婆さんの額に手を当ててやっておりました。「いちぞう、いちぞう」と人の名を呼びます。きっと息子さんかお孫さんに違いありません。 私は何もしてやれないので只黙って額に手を当ててやっているばかりでした。

するとこのお婆さんが「なんまんだぶ」と一声お念仏を称えたのです。そして息が止まったのです。私が西本願寺の別府の別院におまいりするようになったのはやはりあのお婆さん の最期の一声である「なんまんだぶ」の言葉が私の耳にこびりついて離れなかった からでしょう。

妊婦を引き出す               そうしてお婆さんの額に手を当てていると、すぐ近くで何かワイワイ騒いでいる 声が聞こえて来ます。沈さんが私の身体を抱きかかえるようにしてそちらの方に行 きました。すると支那人も沢山集まっているようですが、保安隊の兵隊と学生も全部で十名ぐらい集まっているのです。そこに保安隊でない国民政府軍の兵隊も何名かいまし た。それがみんなで集まっているのは女の人を一人連れ出して来ているのです。 何とその女の人はお腹が大きいのです。七ヶ月か八ヶ月と思われる大きなお腹をしているのです。

学生と保安隊の兵隊、それに国民政府軍の正規の兵隊達が何かガヤガヤと言っていましたが、家の入り口のすぐ側のところに女の人を連れて行きました。この女の人は何もしゃべれないのです。 恐らく恐怖のために口がきけなくなっていることだろうと思うのですが、その恐怖のために恐れおののいている女の人を見ると、女の私ですら綺麗だなあと思いました。ところが一人の学生がこの女の人の着ているものを剥ぎ取ろうとしたら、この女の人が頑強に抵抗するのです。歯をしっかり食いしばっていやいやを続けているの です。学生が二つか三つかこの女の人の頬を殴りつけたのですが、この女の人は頑 強に抵抗を続けていました。そしてときどき「ヒーッ」と泣き声を出すのです。 兵隊と学生達は又集まって話し合いをしております。妊娠をしている女の人にあんまり乱暴なことはするなという気運が、ここに集まっている支那人達の間にも拡がっておりました。


抵抗した日本人男性の立派な最期       とそのときです。一人の日本人の男の人が木剣を持ってこの場に飛び込んで来ました。そして「俺 の家内と子供に何をするのだ。やめろ」と大声で叫んだのです。これで事態が一変しました。若しこの日本の男の人が飛び込んで来なかったら、 或いはこの妊婦の命は助かったかも知れませんが、この男の人の出現ですっかり険悪な空気になりました。学生の一人が何も言わずにこの日本の男の人に青竜刀で斬りつけました。すると この日本の男の人はひらりとその青竜刀をかわしたのです。そして持っていた木刀 でこの学生の肩を烈しく打ちました。学生は「ウーン」と言ってその場に倒れました。 すると今度はそこにいた支那国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊が、鉄砲の先に剣を付けてこの日本の男の人に突きかかって来ました。私は見ながら日本人頑張れ、 日本人頑張れと心の中に叫んでいました。しかしそんなことは口には絶対に言えないのです。 七名も八名もの支那の兵隊達がこの男の人にジリジリと詰め寄って来ましたが、この日本の男の人は少しも怯みません。ピシリと木刀を正眼に構えて一歩も動こうとしないのです。私は立派だなあ、さすがに日本人だなあと思わずにはおられなかったのです。

ところが後ろに回っていた国民政府軍の兵隊が、この日本の男の人の背に向かって統剣でサッと突いてかかりました。するとどうでしょう。この日本の男の人はこれもひらりとかわしてこの兵隊の肩口を木刀で烈しく打ったのです。この兵隊も銃を落としてうずくまりました。でもこの日本の男の人の働きもここまででした。この国民政府軍の兵隊を烈しく日本の男の人が打ち据えたとき、横におった保安隊の兵隊がこの日本の男の人の腰のところに銃剣でグサリと突き刺したのです。日本の男の人が倒れると、残っていた兵隊や学生達が集まりまして、この男の人を殴る蹴るの大乱暴を始めたのです。

日本の男の人はウーンと一度言ったきりあとは声がありません。これは声が出なかったのではなく出せなかったのでしょう。日本の男の人はぐったりなって横たわりましたそれでも支那の兵隊や学生達は乱暴を続けております。そしてあの見るも痛ましい残虐行為が始まったのです。 


頭皮を剥ぎ、目玉を抉取り、腸を切り刻む   それはこの男の人の頭の皮を学生が青竜刀で剥いでしまったのです。私はあんな残酷な光景は見たことはありません。これはもう人間の行為ではありません。悪魔 の行為です。悪魔でもこんなにまで無惨なことはしないと思うのです。 頭の皮を剥いでしまったら、今度は目玉を抉り取るのです。このときまではまだ 日本の男の人は生きていたようですが、この目玉を抉り取られるとき微かに手と足が動いたように見えました。

目玉を抉り取ると、今度は男の人の服を全部剥ぎ取りお腹が上になるように倒し ました。そして又学生が青竜刀でこの口本の男の人のお腹を切り裂いたのです。縦 と横とにお腹を切り裂くと、そのお腹の中から腸を引き出したのです。ずるずると腸が出てまいりますと、その腸をどんどん引っ張るのです。

人間の腸があんなに長いものとは知りませんでした。十メートル近くあったかと 思いますが、学生が何か喚いておりましたが、もう私の耳には入りません。私は沈さんにすがりついたままです。何か別の世界に引きずり込まれたような感じでした。 地獄があるとするならこんなところが地獄だろうなあとしきりに頭のどこかで考えていました。そうしているうちに何かワーッという声が聞こえました。ハッと目をあげてみると、青竜刀を持った学生がその日本の男の人の腸を切ったのです。そしてそれだけ ではありません。別の学生に引っ張らせた腸をいくつにもいくつにも切るのです。 一尺づつぐらい切り刻んだ学生は細切れの腸を、さっきからじっと見ていた妊婦 のところに投げたのです。このお腹に赤ちゃんがいるであろう妊婦は、その自分の主人の腸の一切れが頬にあたると「ヒーッ」と言って気を失ったのです。 その姿を見て兵隊や学生達は手を叩いて喜んでいます。残った腸の細切れを見物していた支那人の方へ二つか三つ投げて来ました。そしてこれはおいしいぞ、日本人の腸だ、焼いて食べろと申しているのです。

しかし見ていた支那人の中でこの細切れの腸を拾おうとするものは一人もおりま せんでした。この兵隊や学生達はもう人間ではないのです。野獣か悪魔か狂竜でし かないのです。そんな人間でない連中のやることに、流石に支那人達は同調するこ とは出来ませんでした。まだ見物している支那人達は人間を忘れてはいなかったのです。


妊婦と胎児への天人許さざる所業       そして細切れの腸をあちらこちらに投げ散らした兵隊や学生達は、今度は気を 失って倒れている妊婦の方に集まって行きました。この妊婦の方はすでにお産が始まっていたようであります。出血も始まったのでしょう。兵隊達も学生達もこんな状況に出会ったのは初めてであったでしょうが、 さっきの興奮がまだ静まっていない兵隊や学生達はこの妊婦の側に集まって、何やらガヤガヤワイワイと申しておったようですが、どうやらこの妊婦の人の下着を取ってしまったようです。そしてまさに生まれようと準備をしている赤ん坊を引き出そうとしているらしいのです。学生や兵隊達が集まってガヤガヤ騒いでいるので はっきりした状況はわかりませんが、赤ん坊を引き出すのに何か針金のようなもの を探しているようです。

とそのときこの妊婦の人が気がついたのでしょう。フラフラと立ち上がりました。 そして一生懸命逃げようとしたのです。見ていた支那人達も早く逃げなさいという思いは持っているけれど、それを口に出すものはなく、又助ける人もありません。さっきのこの妊婦の主人のように殺されてしまうことが怖いからです。

このフラフラと立ち上がった妊婦を見た学生の一人がこの妊婦を突き飛ばしまし た。妊婦はバッタリ倒れたのです。すると兵隊が駆け寄って来て、この妊婦の人を仰向けにしました。するともう さっき下着は取られているので女性としては一番恥ずかしい姿なんです。しかも妊娠七ヶ月か八ヶ月と思われるそのお腹は相当に大きいのです。

国民政府軍の兵隊と見える兵隊がつかつかとこの妊婦の側に寄って来ました。私は何をするのだろうかと思いました。そして一生懸命、同じ人間なんだからこれ以 上の悪いことはしてくれないようにと心の中で祈り続けました。だが支那の兵隊にはそんな人間としての心の欠片もなかったのです。剣を抜いたかと思うと、この妊婦のお腹をさっと切ったのです。 赤い血がパーッと飛び散りました。私は私の目の中にこの血が飛び込んで来たように思って、思わず目を閉じました。それ程この血潮の飛び散りは凄かったのです。

実際は数十メートルも離れておったから、血が飛んで来て目に入るということはあり得ないのですが、あのお腹を切り裂いたときの血潮の飛び散りはもの凄いものでした。

妊婦の人がギャーという最期の一声もこれ以上ない悲惨な叫び声でしたが、あんなことがよく出来るなあと思わずにはおられません。 お腹を切った兵隊は手をお腹の中に突き込んでおりましたが、赤ん坊を探しあて ることが出来なかったからでしょうか、もう一度今度は陰部の方から切り上げています。そしてとうとう赤ん坊を掴み出しました。その兵隊はニヤリと笑っているの です。 片手で赤ん坊を掴み出した兵隊が、保安隊の兵隊と学生達のいる方へその赤ん坊 をまるでボールを投げるように投げたのです。ところが保安隊の兵隊も学生達もその赤ん坊を受け取るものがおりません。赤ん坊は大地に叩きつけられることになったのです。何かグシャという音が聞こえたように思いますが、叩きつけられた赤ん坊のあたりにいた兵隊や学生達が何かガヤガヤワイワイと申していましたが、どう もこの赤ん坊は兵隊や学生達が靴で踏み潰してしまったようであります。

あまりの無惨さに集まっていた支那人達も呆れるようにこの光景を見守っておりましたが、兵隊と学生が立ち去ると、一人の支那人が新聞紙を持って来て、その新聞紙でこの妊婦の顔と抉り取られたお腹の上をそっと覆ってくれましたことは、たった一つの救いであったように思われます。


夫は支那人、私は日本人           こうした大変な出来事に出会い、私は立っておることも出来ない程に疲れてしまったので、家に帰りたいということを沈さんに申しましたら、沈さんもそれがい いだろうと言って二人で家の方に帰ろうとしたときです。 「日本人が処刑されるぞー」と誰かが叫びました。この上に尚、日本人を処刑しなくてはならないのかなあと思いました。しかしそれは支那の学生や兵隊のやることだからしょうがないなあと思ったのですが、そんなものは見たくなかったのです。

私は兎に角家に帰りたかったのです。でも沈さんが行ってみようと言って私の体を日本人が処刑される場所へと連れて行ったのです。 このときになって私はハッと気付いたことがあったのです。それは沈さんが支那人であったということです。そして私は結婚式までして沈さんのお嫁さんになったのだから、そののちは支那人の嫁さんだから私も支那人だと思い込んでいたのです。

そして商売をしているときも、一緒に生活をしているときも、この気持ちでずーっ と押し通して来たので、私も支那人だと思うようになっていました。そして早く本 当の支那人になりきらなくてはならないと思って今日まで来たのです。そしてこの 一、二年の間は支那語も充分話せるようになって、誰が見ても私は支那人だったの です。実際沈さんの新しい友人はみんな私を支那人としか見ていないのです。それで支那のいろいろのことも話してくれるようになっておりました。 それが今目の前で日本人が惨ったらしい殺され方を支那人によって行われている 姿を見ると、私には堪えられないものが沸き起こって来たのです。それは日本人の 血と申しましょうか、日本人の感情と申しましょうか、そんなものが私を動かし始 めたのです。

それでもうこれ以上日本人の悲惨な姿は見たくないと思って家に帰ろうとしたの ですが、沈さんはやはり支那人です。私の心は通じておりません。そんな惨いこと を日本人に与えるなら私はもう見たくないと沈さんに言いたかったのですが、沈さ んはやはり支那人ですから私程に日本人の殺されることに深い悲痛の心は持ってい なかったとしか思われません。家に帰ろうと言っている私を日本人が処刑される広場に連れて行きました。それは日本人居留区になっているところの東側にあたる空 き地だったのです。


処刑された人々は「大日本帝国万歳」と叫んだ

そこには兵隊や学生でない支那人が既に何十名か集まっていました。そして恐ら く五十名以上と思われる日本人でしたが一ヶ所に集められております。ここには国民政府軍の兵隊が沢山おりました。保安隊の兵隊や学生達は後ろに下がっておりました。

集められた日本人の人達は殆ど身体には何もつけておりません。恐らく国民政府軍か保安隊の兵隊、又は学生達によって掠奪されてしまったものだと思われます。 何も身につけていない人達はこうした掠奪の被害者ということでありましょう。 そのうち国民政府軍の兵隊が何か大きな声で喚いておりました。すると国民政府軍の兵隊も学生もドーッと後ろの方へ下がってまいりました。するとそこには二挺の機関銃が備えつけられております。

私には初めて国民政府軍の意図するところがわかったのです。五十数名の日本の人達もこの機関銃を見たときすべての事情がわかったのでしょう。みんなの人の顔 が恐怖に引きつっていました。

そして誰も何も言えないうちに機関銃の前に国民政府軍の兵隊が座ったのです。 引き金に手をかけたらそれが最期です。何とも言うことの出来ない戦慄がこの広場を包んだのです。

そのときです。日本人の中から誰かが「大日本帝国万歳」と叫んだのです。する とこれに同調するように殆どの日本人が「大日本帝国万歳」を叫びました。その叫び声が終わらぬうちに機関銃が火を噴いたのです。 バタバタと日本の人が倒れて行きます。機関銃の弾丸が当たると一瞬顔をしかめ るような表情をしますが、しばらくは立っているのです。そしてしばらくしてバッ タリと倒れるのです。このしばらくというと長い時間のようですが、ほんとは二秒 か三秒の間だと思われます。しかし見ている方からすれば、その弾丸が当たって倒れるまでにすごく長い時間がかかったように見受けられるのです。

そして修羅の巷というのがこんな姿であろうかと思わしめられました。兎に角何 と言い現してよいのか、私にはその言葉はありませんでした。只呆然と眺めているうちに機関銃の音が止みました。

五十数名の日本人は皆倒れているのです。その中からは呻き声がかすかに聞こえるけれど、殆ど死んでしまったものと思われました。 ところがです。その死人の山の中に保安隊の兵隊が入って行くのです。何をするのだろうかと見ていると、機関銃の弾丸で死にきっていない人達を一人一人銃剣で 刺し殺しているのです。保安隊の兵隊達は、日本人の屍体を足で蹴りあげては生死を確かめ、一寸でも体を動かすものがおれば銃剣で突き刺すのです。こんなひどい ことがあってよいだろうかと思うけれどどうすることも出来ません。全部の日本人 が死んでしまったということを確かめると、国民政府軍の兵隊も、保安隊の兵隊も、そして学生達も引き上げて行きました。

するとどうでしょう。見物しておった支那人達がバラバラと屍体のところに走り 寄って行くのです。何をするのだろうと思って見ていると、屍体を一人一人確かめ ながらまだ身に付いているものの中からいろいろのものを掠奪を始めたのです。 これは一体どういうことでしょう。私には全然わかりません。 只怖いというより、 こんなところには一分も一秒もいたくないと思ったので、沈さんの手を引くようにしてその場を離れました。もう私の頭の中は何もわからないようになってしまって おったのです。

私はもう町の中には入りたくないと思って、沈さんの手を引いて町の東側から北 側へ抜けようと思って歩き始めたのです。私の家に帰るのに城内の道があったので、 城内の道を通った方が近いので北門から入り近水楼の近くまで来たときです。


近水楼の池を真っ赤に染める         その近水楼の近くに池がありました。その池のところに日本人が四、五十人立たされておりました。あっ、またこんなところに来てしまったと思って引き返そうとしましたが、何人 もの支那人がいるのでそれは出来ません。若し私があんなもの見たくないといって 引き返したら、外の支那人達はおかしく思うに違いありません。国民政府軍が日本 人は悪人だから殺せと言っているし、共産軍の人達も日本人殺せと言っているので、通州に住む殆どの支那人が日本は悪い、日本人は鬼だと思っているに違いない。 そんなとき私が日本人の殺されるのは見ていられないといってあの場を立ち去るなら、きっと通州に住んでいる支那人達からあの人はおかしいではないかと思われる。 沈さんまでが変な目で見られるようになると困るのです。それでこの池のところで 又ジーッと、これから始まるであろう日本人虐殺のシーンを見ておかなくてはなら ないことになってしまったのです。

そこには四十人か五十人かと思われる日本人が集められております。殆どが男の人ですが、中には五十を越したと思われる女の人も何人かおりました。そしてそうした中についさっき見た手を針金で括られ、掌に穴を開けられて大きな針金を通さ れた十人程の日本人の人達が連れられて来ました。国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊、それに学生が来ておりました。

そして一番最初に連れ出された五十才くらいの日本人を学生が青竜刀で首のあた りを狙って斬りつけたのです。ところが首に当たらず肩のあたりに青竜刀が当たり ますと、その青竜刀を引ったくるようにした国民政府軍の将校と見られる男が、肩 を斬られて倒れておる日本の男の人を兵隊二人で抱き起こしました。そして首を前の方に突き出させたのです。そこにこの国民政府軍の将校と思われる兵隊が青竜刀を振り下ろしたのです。この日本の男の人の首はコロリと前に落ちました。これを見て国民政府軍の将校はニヤリと笑ったのです。この落ちた日本の男の人の首を保安隊の兵隊がまるで ボールを蹴るように蹴飛ばしますと、すぐそばの池の中に落ち込んだのです。

この国民政府軍の将校の人は次の日本の男の人を引き出させると、今度は青竜刀 で真正面から力一杯この日本の男の人の額に斬りつけたのです。するとこの日本の男の人の額がパックリ割られて脳漿が飛び散りました。二人の日本の男の人を殺し たこの国民政府軍の将校は手をあげて合図をして自分はさっさと引き上げたのです。 合図を受けた政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、学生達がワーッと日本人に襲いかかりました。四十人か五十人かの日本人が次々に殺されて行きます。そしてその死体 は全部そこにある池の中に投げ込むのです。四十人か五十人の日本の人を殺して池 に投げ込むのに十分とはかかりませんでした。

池の水は見る間に赤い色に変わってしまいました。全部の日本人が投げ込まれた ときは池の水の色は真っ赤になっていたのです。


支那人への嫌悪感から離婚、帰国       私はもうたまりません。沈さんの手を引いて逃げるようにその場を立ち去ろうと しました。そして見たくはなかったけど池を見ました真っ赤な池です。その池に 蓮の花が一輪咲いていました。その蓮の花を見たとき、何かあの沢山の日本の人達 が蓮の花咲くみほとけの国に行って下さっているような気持ちになさしめられました。

沈さんと一緒に家に帰ると私は何も言うことが出来ません。沈さんは一生懸命私を慰めてくれました。しかし沈さんが私を慰めれば慰めるだけ、この人も支那人だなあという気持ちが私の心の中に拡がって来ました。

昼過ぎでした。日本の飛行機が一機飛んで来ました。日本軍が来たと誰かが叫びました。ドタドタと軍靴の音が聞こえて来ました。それは日本軍が来たというので、国民政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、そしてあの学生達が逃げ出したのです。 悪魔も鬼も悪獣も及ばぬような残虐無惨なことをした兵隊や学生達も、日本軍が来たという誰かの知らせでまるで脱兎のように逃げ出して行くのです。その逃げ出 して行く兵隊達の足音を聞きながら、私はザマアミヤガレという気持ちではなく、何故もっと早く日本軍が来てくれなかったのかと、かえって腹が立って来ました。 実際に日本軍が来たのは翌日でした。でも日本軍が来たというだけで逃げ出す支 那兵。とても戦争したら太刀打ち出来ない支那兵であるのに、どうしてこんなに野盗のように日本軍の目を掠めるように、このような残虐なことをしたのでしょうか。

このとき支那人に殺された日本人は三百数十名、四百名近く(注)であったとのことです。

(注)正しくは二百数十名。

私は今回の事件を通して支那人がいよいよ嫌いになりました。私は支那人の嫁になっているけど支那人が嫌いになりました。

こんなことからとうとう沈さんとも別れることとなり、昭和十五年に日本に帰って来ました。

でも私の脳裏にはあの昭和十二年七月二十九日のことは忘れられません。今でも 昨日のことのように一つ一つの情景が手に取るように思い出されます。そして往生 要集に説いてある地獄は本当にあるのだなあとしみじみ思うのです。