日記:藤本タツキ『さよなら絵梨』感想

藤本タツキの新作『さよなら絵梨』を読んだ。
「創作の意味」についての作品だったと感じた。
創作の意味が、時間とともに変わっていく様を丁寧に描いた作品。

この作品を読んでから、「自分がインタビュー分析をなぜ書くのか?」を考えてしまっている。
主人公が膨大な録画データを溜め、その編集に悩むように、自分も一年以上前に取ったインタビューデータを前に、このデータをどう編集して世に出すのかを悩んでいる。
これらを世に出す意味をどう捉えたらいいか、わからなくなっている。

いや、これはここ1年近く、ずっと悩んでいることだ。
今の自分には、インタビュー分析をする切実な理由がない。生きるために必要な、お金が支払われる、納期が迫った仕事に追われている。時間をひねり出すことができないわけではないが、そのたびに、なぜそれをやるのかを説明できる強い理由が自分の中に無いことに気づく。

インタビュー分析という行為への愛着はある。
だが、その愛着を行動として表現する理由が、今の自分には存在しない。

主人公にとっての創作の意味は、映画を撮る時と、それを公開するときと、後から見返すときで、明らかに異なっている。

世の中には「生きるために物語が必要」な人種がいる。かつての自分はそうだった。高校や大学の先輩にも、そういう人たちがいた。私たちは、生きるために必要だから、小説を書いたり、脚本を書いたり、映画を撮ったりしていたのだと思う。そして、多分藤本タツキという漫画家もそうだったのではないか。

今の自分はそうではない。今の自分には「物語」への切実な想いはない。どうしても必要だった時のことも、あまりよく思い出せない。
たぶん、大人になったし、幸せになったのだ。
藤本タツキもきっとそうだろう。

自分がmillnaさんのインタビューに関心を持ったのは、そこに自分が知っている「メンタルヘルス」の中にはない志向性を見たからだ。クソッタレな現実を生きるための虚構。思い通りにならない「現実」を生きるための飾り。想像が現実を塗りつぶしていく。現実を治療するのではなく、現実を生きるためのファンタジーを重ねていく。それはまさに人類が生きるために必要としてきた「文化」だ。
まだ公開していないkarinさんのデータも同様で、現実と戦うための虚構、という構図に興味を持った。自分はそういう人が好きなのだ。

主人公にとって記録された映像は、思い通りにならない現実そのものでもあるが、「編集」の過程の中で、その現実が改変されていく。その意味で、編集された映像は現実というよりも、むしろファンタジーだ。ひとつまみのファンタジー。クソッタレな現実を、愛して生きていくための。

編集された映像は、その先の人生を生きていくための糧になる。かつてそこにあったものはずのもの。私たちが忘れていたもの。そういうものとして、「編集」によってそれが現れる。

私たちは現実に対して言葉を重ねていく。それは、現実を正しく描写するためだっただろうか? 現実を切り取るために、精緻に言葉を積み重ねていく時、現実は見えなくなり、むしろ言葉こそが現実になっていく。リアルとリアリティの逆転。塗りつぶされた世界。

かつて作り上げた物語が、要らなくなることがある。当時は辛い現実をそれでも生きるための糧だったものが、いつのまにか今ある現実を生きられなくするだけの呪いになっていることもある。
だからこその、「抜け出す」ための爆発オチ。今までの文脈を無に帰すもの。私たちが作り上げた文脈からの、大脱出。

昔から「世界」を作るのが好きだった。小学生の時からやっていたゲーム作りも、世界を作る作業だ。ある目的があり、そこに対してオブジェクトが配置されていく。つまり、ハイデガーの「世界」の定義そのものだ。
現実は目的を持たないが、「世界」は目的を持つ。ある目的に従ってモノが意味を持って配置されていく。「世界」とは、現実を解釈したときにその都度生み出されるものだ。

世界は毎回新しく生まれるのだから、当然、過去の解釈も常に塗り変わっていく。母親が死んだ時。絵梨と出会った後。絵梨との別れ。大人になった後。過去が持つ意味は、その都度変わっていく。我々読者にとっても、どのページまでをめくったのかによって、過去のページの持つ意味は、毎回変わっている。

インタビュー分析はドキュメンタリーだろうか? ドキュメンタリーとは、どこまで現実なのだろうか。

私がやっているのは学術的な手続きにのっとったインタビュー分析である。だから、できる限り現実をそのまま記述することを目指している。

でも、ドキュメンタリーに求められているのは、本当は「ひとつまみのファンタジー」だったのだろうか? 過去の思い出を美しく残し、この先を生きる力に変えるものが必要なのだろうか? 現実を残すための創作ではなく、思うようにならない現実と戦うための創作。現実を脚色するための「ファンタジー」。

そういう、現実にあらがうための「ファンタジー」が差し込まれた作品を、美しいと思う。
一方で、それは多分自分のやり方で作るべきものではないのだ、とも。

インタビュー分析をやっているのも、一つには、自分が「インタビュー分析者」であるという文脈への固執がある。

最後に主人公が爆発オチを選択するとき、多分、「自分が創作者であるという文脈」からの脱出も意図しているはずだ。爆発オチという、創作そのものを台無しにする結末によって。

俺の「爆発オチ」はどこだ?

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