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CTO(チーフ・てつがく・オフィサー)と呼ばれて

私はcotreeでエンジニアをしている。

Twitterの自己紹介にも書いているが、普段の私は、とてもわるい奴なので、雑談の中で、うろ覚えの人文科学の知見を次から次へとテキトーに引用しながらしゃべるのが趣味だ。

私の話し方は、こちらのラジオで聞くことができる。終業後にオフィスで酒を飲みながら話し、看護理論家のベナーやオレムの言葉を使いながら、自分がcotreeで働いている理由についてべらべらしゃべっていた。

ラジオだからというわけではなく、私は普段からcotreeではこんなことばかり話している。インターンの中村くんからもお墨付きをいただいた。

ラジオの企画者のたみー氏がcotreeにジョインした頃に、オフィス近くの餃子屋に飲みに行った時にも、いつも通り他のcotreeメンバーと社会学の理論などの話をしていたら、「企業文化の違いに驚いた」と言われた。普通は飲み会で「〜学」の話など出ないらしい。そうだったのか。私は大学生の時からそんな話ばかりしていたが・・・。

仕事中のブレストや終業後の飲み会でもそんな話し方ばかりしていたところ、CTO(チーフ・テクノロジー・オフィサー)ならぬ、CTO(チーフ・てつがく・オフィサー)などと揶揄されるようになってしまった。

哲学科や倫理学科出身の知り合いの先輩方のことを思い浮かべると、私程度の学習量の人間が名乗るのは恐縮なのだが・・・。

”わずかでも積み上がる真実と共に生きる”

なんでも、出版業界では、小さな"哲学ブーム"だという。キャッチーな切り口で、過去の哲学の議論を一般にもわかりやすくまとめた本が多数出ているらしい。買って読んでるわけではないのだけど、この手の本の目次や帯を眺めていると、「哲学が、今の世の中にどのような価値を提供できるのか」という問いに対する多様な回答を見ることができて、面白い。

例えば、次の本の帯の言葉はとても好きだ。

"成功"ほどあいまいな言葉はない。
絶望と向き合い、わずかでも積み上がる真実と共に生きること。それが哲学だ!

つくづく、その通りだなと思う。"成功"ほどあいまいな言葉はない。勝利、正義、善、どれもこれもあやふやな言葉だ。"この軸にさえに従えばいい"という指針、"絶対善"といえる基準がまるで見当たらないという絶望の中で、それでも少しでもマシな方に努力を積み重ねていくための指針として、僕は人文科学を学んでいるのだと思う。

メンタルヘルス業界は、"これに従えばいい"という指針、"善"といえる基準が、見当たらない領域だと思う。

"心の健康"という概念ひとつとっても、絶対的な意見がない。使う指標によって構成概念が異なる。WHOの定義や厚生労働省の定義を見るだけでも、定義が恐ろしく入り組んでいて、時代や社会の影響から自由でないことがよくわかる。

心理の専門家の意見すら、常に正しいわけではない。この前オフィスで雑誌"当事者知と専門知"の読書会をやったが、"当事者知"という言葉が専門家によって注目されること自体が、"専門家の知識"が、当事者の知見から見れば限界があり、批判し得ることを示している。

一方で、ユーザの当事者の意見を絶対に真実とすることもできない。消費者-サービス提供者の関係において、「自分にはどんなサービスが必要だと考えるか」の選択権は、一般的に消費者にあり、消費者の意向を尊重すべきと考えるべきだが、ことメンタルヘルスの領域において、「自分にどんなサービスが必要なのか」をユーザ自身が自分で全て判断できるというのは無理がある前提だ。"ユーザ満足度"を指標とする手もあるが、ユーザ満足度が短期的には高くても、10年や20年という長期的なスパンで見ると、相手のためにならないこともある。そして、10年や20年経たないと是非がわからないのでは、サービスの改善は回せない。

お金をかせぐことについても悩ましい。サービスの対価としてお金をもらうことで、自分たちのやっていることの価値を担保し、提供者側の自己満足に陥らないための担保になると考えているが、当然、お金をいっぱい稼ぐことが善だとはならない(この観点については無限に書けるのでこの記事では深入りしない)。一方で、サービス提供者側にも生活があり、持続可能で安定的に発展するサービス提供のためには、利益の基盤が必須である。

市場の論理、臨床の論理、当事者の論理、矛盾する複数の善を抱えながら、全体のバランスを考え、ちょっとでも今よりも良くしていく、というのを繰り返していくしかない。

だからこそ、帯の言葉は印象に残る。安易な"答え"に飛びつくのではなく、少しでも積み上がる言葉と共にすごすこと。我々がやっていることは、つくづく(何度でも繰り返しちゃうが)、そういうことだと思うからだ。


"その悩み、哲学者がすでに答えを出しています"

「その悩み、哲学者がすでに答えを出しています」

というこのタイトルも結構好きだ。

もちろん、過去の人文科学の知識がいつだって正しいわけでもない。過去の知見は新しい知見によってアップデートされていく。現在ぶつかっている問題に、数百年前の人の言葉が適用できる保証なんてどこにもない。

だが、哲学や人文科学の知見というのは、人類が千年以上、議論を積み上げてきた、その歴史のエッセンスだ。私たちが今悩んでいる問題に、同じように悩んで来た人が過去にいっぱいいる、というだけでも元気になる。

CTO(チーフ・てつがく・オフィサー)なんて壮大な名前をつけられているが、私について特筆すべきことがあるとすれば、ある問題にぶつかった時に、過去の人類が積み上げてきた遺産を参照し、自分の悩みに活かせないかと考える傾向が、一般的な水準に比べれば、少しは高い、ということだと思う。

ちょっとカッコつけて言えば、過去の人類が積み重ねてきた知識への敬意を持ち、それを参照する能力のことを、"教養"と呼ぶのだ、と私は信じている。


CTO(チーフ・てつがく・オフィサー)と呼ばれて

大学で哲学を専攻していたというわけではないし、学生の頃にはうろ覚えの知識を語っては先輩らにビミョーな顔をされていたので、CTO(チーフ・てつがく・オフィサー)などと言われるのは申し訳なさがある。"教養"が優れているかと言えば、全然私よりも教養ある人が身の回りにいっぱいいるし、全然自信がない。

だが、実際、自分の知識が仕事の中で役立つ瞬間が最近はかなりある。それに、哲学に限らず、大学で人文科学の知識を学ぶことがもっと労働市場で評価されるようになったらいいのに、と思っていたので、役立てることがあるなら、発信していこうかなと最近は思っている。

メンタルヘルスなど、答えのない領域に挑むからこそ、単に技術力だけではなく、人文科学の知識を持つ人でありたい、と思うし、そういうエンジニアが増えたらいいなと思っている。


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