居場所の未来

"居場所"を求める運動の果て イベント「居場所の未来」で考えたこと

3/28(木)に行われた"居場所の未来"に弊社の社長が登壇したので、職場の仲間と一緒に行ってきた。

家入一真さん、東畑開人さん、佐渡島庸平さん、弊社社長の櫻本真理の4名に、サプライズゲスト2名を加えた、豪華なメンバーでのトークショーだった。誰もが"居場所"について一家言ある人物だったこともあり、登壇者の誰もが、次から次へと重要な論点を提示する、大変スリリングな会であった。

「居場所があるのかを問うてはいけない」?

その反面、テーマが次々と変わり、議論が飛び飛びになり、「けっきょく、結論ってどうなったんだっけ?」という気持ちに襲われた聴衆もいたのではないだろうか。私がそうだった。

今回のトークショーの中で、一番結論らしい発言は、佐渡島さんの以下の発言だろう。(なお、逐語録が見当たらなかったので、この記事から発言のメモを引用させていただいた。)

佐渡島:問うてはいけない問いがあるよね。居場所とは?はいいけど、あるのかな?とは考えないほうがいいのかもしれないね。

"居場所の未来"のトークショーは、(もし結論らしいものがあるとすれば)『「居場所があるのか?」を問うてはいけない』という結論だった。少なくとも、私はそう感じたし、同じように受け取った聴衆も多くいるだろう。引用元の記事も、この発言で記事を締めている。

それはなぜだろうか。"居場所の未来"は、なぜこのような結論にたどり着いたのだろうか。

この記事は、「あの場で話されたそれぞれのテーマは、どのような関係性にあるのか?」「あの場の議論の一つ一つのテーマを、どのように体系づけて理解したらいいのか?」について、"見取り図"を提示すること、それによって、上の疑問に答えることを目的とする。

もちろん、あの場での議論の内容をどのように受け取り、活かしていくかは、あの場にいた一人一人に委ねられている。この記事が、あの場の議論を理解するための参考となったら嬉しい。

家入さん「居場所を次々に作るが、どこにも居つくことができない」

佐渡島さんが「問うてはいけない問いがある」と語る一方で、真摯に居場所について探求してしまう人もいる。家入さんだ。

家入:僕なんかは居心地のよさが居心地悪くなってきてしまうんですけど、そのことを説明して欲しいです。
東畑:家入さんは真摯な居場所探求者ですね。(笑)

家入さんから、居場所を次々と作り出していくにも関わらず、どこにも居つくことができない、という話題が出た。このことについて、東畑さんが「真摯な居場所探求者」と表現している。家入さんは、新しい居場所を作っても、「これは居場所なのだろうか?」と、真摯に問いかけてしまうために、どこにも「居つく」ことができなくなってしまう。

このことを説明するために、東畑さんが、「アジールがアサイラム化する」という話題を出していた。

新しい居場所は、他の居場所に居られなかった人たちが、解放されるための「アジール」として作られる。だが、そこに人が増え、暮らしているうちに、多様な人が共に暮らすための様々なルールが生まれていく。その結果、その場所はルールでがんじがらめになり、「アサイラム」になっていく。居場所は長続きしない。"ピュアな居場所"を求める限り、次から次へと新しいところに移り続けるしかない・・・。

"市民"と"旅人"を繰り返す

 これらの話を、私は、中世ファンタジーによく出てくる「市民」と「旅人」の対比を想像しながら聞いていた。

最近アニメ化が決まった「本好きの下克上」という作品の以下のシーンは、「市民」と「旅人」の対比がよく現れている。末っ子であるがゆえに、家族の中において立場が弱く、つらい想いをしている「ルッツ」という少年が、旅商人に憧れ、元旅商人オットーと会合するシーンである。

「それで、ルッツが旅商人になりたいということだったか?」
「あ、はい。オレ……」
「止めとけ」
「え?」
「市民権を手放すのは馬鹿のすることだ」
「……オットーさん、市民権って、何ですか?」
「この街に住むことができる権利だ。同時に身元を証明するものでもある。7歳の洗礼式で神殿に街の人間として登録され、仕事につくにも、結婚するにも、家を借りるにも市民権のある者とない者では対応が変わってくる。余所者が神殿に登録してもらって、市民権を得て、街に定住しようと思ったら、とんでもない金がかかるんだ」
「例えば、水。お前は必要になったらどうする?」
「井戸から汲む」
「そうだよな? でも、旅の間は決まった井戸なんかない。まず水場を探すところから始まるんだ」
「……そして、一番重要なのが、旅商人の行く末だ。旅商人が望む物が何か、お前はわかるか?」
「……」
「市民権だよ」
「え!?」
「厳しい旅の生活を止めて、いつかは街で暮らしたい。街で店を持って安全に商売がしたい。そのために金を貯めたい。それが旅商人の夢だ。すでに市民権を持っているお前が旅商人に受け入れられることはない。どうしてもやりたいなら自分で始めるしかない。旅商人には見習いなんて制度はないんだ」

本好きの下克上 「商人との会合」(一部省略)
https://ncode.syosetu.com/n4830bu/25/

"街"は、様々なルールや封建的な上下関係が存在し、それゆえに"居づらい"場所として描かれる。少年ルッツは"街"に居場所を持っているが、そこが"居づらい"ものであるために、もっと良い居場所を求め、旅商人になって街を出て行こうと考える。だが、元旅商人のオットーは、旅暮らしのつらさを語る。旅暮らしでは、水を汲むだけですら、"慣れ親しんだ"やり方が通用せず、毎回、探索しなければならない。だからこそ、"旅商人"にとっては、"街"への定住こそが、もっとも望むものであると語る。

このように考えると、「市民」と「旅人」の間では、"居場所"を巡る悩みの質が全く異なると思える。

そして、現代の多くの人は、「市民」と「旅人」の間を往復しつづけているのではないだろうか。家入さんが、新しい「居場所」を作り出しても、そこからすぐ飛び出してしまうように、我々は新しい居場所を見つけても、そこに「市民」として居続けることができずに、すぐに飛び出してしまう。そして、飛び出した先で、「市民権」のある暮らしを夢想するーー街に定住した、安全な暮らしを。

無限に続く「より良い居場所」探し

私が考えるに、上述のような、無限に繰り返す「より良い居場所」探しこそが、今回のトークショーを"カオス"にした最大の原因だ。

この話を友人の下駄くんにしたところ、図を作ってくれたので、図を元に説明してみる。

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1. 今ある日常

少年ルッツにとっての”街”のような、今の"居場所"がココにあたる。居づらさはあるとしても、それは制度と"市民権"に守られた、安全な暮らしだ。そこでは全てが決まっており、慣れ親しんだものだけで構成された生活である。

2. 旅立つ

今の状況に対して、「もっと良い場所があるのでは?」「私は他に居るべきところがあるのでは?」「もっと居心地の良いやり方があるのでは?」という問いを持った時、人は、今の"日常"に"居つく"ことに不満を覚える。今ある日常とは異なる「別の可能性」を探して、今ある日常を手放すことになる。

3. 非日常

今までの日常から離れた時、そこに"非日常"が現れる。"慣れ親しんだやり方"だけでは解決できないものが現れる。

4. 日常の再構築

非日常の中では、"慣れ親しんだやり方"が通じなくなるので、新しいやり方を模索しなければならない。望むと望まざるとに関わらず、"日常"を取り戻すために奮闘する。今の居場所を捨て、新しい居場所を探す人もいるし、新しい問題をカバーできるような、新しい"ルール"を導入することで、今の居場所を修正していくこともあるだろう。

5. 新しい日常

今までの日常とは異なる新しい日常が作られる。新しい日常では、非日常の中で経験したことは、"慣れ親しんだもの"に代わり、新しい日常の一部になっている。

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しかし、いずれ新しい日常にも限界が来る。新しい"居心地の悪さ"に直面し、また「別の可能性はないのか?」と問われることになり、話は1へと戻る。このループを繰り返すごとに、日常はどんどん移り変わっていき、どんどん変化していく。

「居場所を求める運動」の3つの形式

この図を元に、居場所を求める運動が、どのような形を取り得るのかを考えてみよう。

【A. 無限に続く「より良い居場所」探し

家入さんは、無限に続く「より良い居場所」探しの中で、どこにも"居つく"ことができなかった。"問い"が生まれる限り、"居場所"を探す往復運動は続く。

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そして、"居場所の未来"とイベントが、「未来の居場所とは何か?」を問うものであるならば、このトークショーも、同じような運動を描くだろう。一度「居場所とは○○だ」という定義(=今ある日常)が出ても、すぐに新しいテーマ(=問い)が提示され、覆され、また次の定義(=新しい日常)へと移る。

【B. 思考停止

無限に続く「より良い居場所」探しを止めるためには、"思考停止"が必要になる。新しい"問い"を受け付けず、「別の可能性」を夢想することを止める。今ある日常だけを堅持する。そういえば、他ならぬ家入さん自身が、"思考停止"について触れていた。

家入:みんな思考を止めたがっているのではないかとも思って。居場所とは何かと問うたらダメな気がする。

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今回の議論では、"思考停止"に関するテーマがいくつか出た。宗教性は、教義(=議論において覆すことができない教え)を持つことによって担保される。アーミッシュは科学発展による新しい暮らしを拒絶する。

少年ルッツにとっての"街"は、居心地は悪いが、間違いなく"居場所"ではあった。それを居場所と呼んでいいのかどうかは、単に少年ルッツが、街の暮らしを受け入れるかどうか、つまり"旅立つ"ことを諦めるかどうかに依存する。

【C. 無駄】

東畑:友達とは無駄な情報を提供できる関係性だと僕は思っていて。「無駄」がキーワードかもしれませんね。

だが、"今ある日常"を諦めて受け入れる、という回答に納得できる人は多くないだろう。今ある日常がずっと続くという退屈さに、人は耐えれらない。東畑さんの新刊「居るのはつらいよ」では、"ただ居る"ことのつらさが描かれている。

今ある日常に耐えるためには、遊び、すなわち"無駄"が必要になる。思考を止めるのではなく、思考を蕩尽する。新しい日常を探し求めて旅に出るのではなく、定期的に「旅行」に出て、再び、今ある日常に帰ってくる。

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「文化とは、人が生きるために必要なもの以外の全てだ」という論点も出た。友達とは無駄なLINEを送ってしまう相手のこと、という論点もあった。

再び、【A. 無限に続く「より良い居場所」探し】

だが、"無駄"は、「これって、意味あるのか?」「もっと他にいい方法があるのではないか?」という問いによって追い詰められる。※1

「評価経済」や「役に立つこと」も論点として出ていた。「誰かの役に立っていること」で安心でき、居場所感を感じる、という立場からすれば、"無駄"はむしろ「このままでいいのか?」という不安を煽り、「他の可能性はないのか?」という問いを喚起するものでしかない。遊びに費やされた時間やお金に、もっと他のよい使い方はなかったのか? 友人と共にいる時間を、もっと有意義な時間にする努力をすべきではないか? 私は、もっと誰かの役に立てる場所にいるべきなのではないか・・・?

こうして、"無駄な非日常"に費やされていたリソースたちが、自分たちの意味を、存在理由を求める。もっと評価される存在になることを求める。本来、"非日常"のためだけに費やされていた時間・お金・人が、「もっと私たちは役立てるはずだ」と主張して、ただただ”非日常”としてだけ消費されることを拒絶し、"日常"までをも変革しはじめる。こうして再び、無限に続く「より良い居場所」探しが始まる・・・。

「居場所を問うてはいけない」の結論へ

より良い居場所を求め、無限に「より良い居場所」を探す生活の中で生きるのか。これ以上の可能性を拒絶し、思考を停止し、変化のない、市壁に閉ざされた街の中で暮らすのか。無駄を愛し、日常を変化させない"無駄なもの"に時間とお金を費やして生きるのか。「居場所を求める運動」は、この3つの運動状態を、ぐるぐる入れ変わることになる。

こうして、登壇者たちによる、終わりのない「居場所を求める運動」を垣間見た私たちは、なぜ、このような事態になっているのか、どうにかならないのか、と悩まされることになるだろう。その時、佐渡島さんが言っていたことに思い当たる。そうだ、「居場所があるのかを問うてしまったこと」が全ての原因なのではないか・・・。

[提言]静的な状態としての"居場所"ではなく、動的な過程として"居場所"を考える

しかし、"居場所の未来"の結論が、そんな暗い結論でいいのか。

「居場所があるのか」という問いは、"居場所がある"という状態を、何かの"到達点"、つまり、完成した静的な状態として捉えているように思う。そして、その枠組みにとらわれる限り、上のような議論にたどり着く。

では、"居場所"を状態ではなく、過程と捉えることで、もっと別の議論をすることはできないだろうか。すなわち、図の中の「1.今ある日常」と「5.新しい日常」だけに着目するのではなく、その間にある「2.旅立つ」「3.非日常」「4.日常の再構築」の3つの過程に目を向けてみるのだ。この過程を改善することで、無限に続く「より良い居場所」探しの過程そのものを、"居場所"として十全なものにすることはできないだろうか?

"日常の変化"を受け止めてもらえること

"今ある日常"を壊す体験に、居場所感を感じる人がいる、と言ったらどうだろうか。

弊社社長の櫻本が、「社長だからちゃんとしなきゃと思っていたが、社員に自分の弱さを開示したら受け止めてもらえたときに、居場所感を感じた」という話題を出していた。

以下はその時のslackのスクリーンショットである。

組織論的には「心理的安全性」の議論になると思うが、何か困りごとや問題があるときに、「このチームなら、言っても大丈夫だ」という安心感があれば、それについて議論しやすくなる。

社長としては勇気の要る発言だったのだと思うし、実際、このような発言が放り込まれると、社員側も多少は動揺する。だが、このような発言が投げ込まれることによって、今度は他のスタッフも自分のストレスがかかった時のトリセツを投稿する、という、"新しい日常"への起爆剤となる。実際、cotreeの社内は、日々このようなコミュニケーションを繰り返すことで、”より居心地の良い職場”になるよう努めている。

これは、cotreeの同僚たちの"日常の再構築"の能力が高いからこそできることだったと思っている。このような、"日常の再構築"ができるメンバーが周りに揃っていれば、安心して今ある日常を壊すことができるのではないか。

"日常の再構築"をケアする力

東畑さんの新刊「居るのはつらいよ」では、デイケアでの業務が語られる。

ハエバルくんやメンバーさんの世界では、空間に「何か」が充満しているのだ。たとえば、幻聴。それは何もないところに響く声だ。あるいは「脳を抜かれている」と語るメンバーさんの空間では、宇宙からやってくる電波で満たされている。それから、被害妄想。誰も何も言っていないのに、冷たいまなざしを感じてしまう。それは何も統合失調症の人にかぎらない。

精神疾患は、しばしば、今まで当たり前だった日常を当たり前ではなくしてしまう。幻聴・被害妄想・理由のわからない気分の落ち込みが、今までの"当たり前"を脅かしてくる。今まで通りに学校に行けなくなる。食事の最中に幻聴が聞こえてくる。日常に非日常が溢れはじめる。デイケアとは、精神疾患がもたらす非日常に脅かされながらも、日常を再構築していくための支援だ。

そういえば、私の母親は統合失調症であり、デイケアに通っているが、母もちょっとしたことで"日常"が壊れてしまう人だった。たまに地域のサークル活動などで、役割を頼まれると、人に頼られるのは嬉しいのか、最初は張り切るものの、そのうち期待がつらくなり、調子を崩し、一カ月くらい入院してしまうこともあった。母親は家で一人でいる時間が長いので、寂しい想いもあったのではないかと思うのだが、新しい場所に出かけた後は、しばしば調子を崩し、回復までに他の家族が奔走することになるので、家族としては新しいサークルなどの場所に送り出すのには躊躇う気持ちもあった。

だがもし、母親が調子を崩しても、すぐに体調を回復できるという自信があったなら、私たち家族は、母親が新しい出会いを求めて、サークルへと"旅立つ"ことを引きとめなくても済んだはずだ。

だとすれば、【A. 無限に続く「より良い居場所」探し】を恐れて【B.思考停止】する、という行動を招いているのは、理想の居場所のカタチが明らかになっていないからではなく、理想の居場所を探して旅立つように差し向けておきながら、旅先で日常を再構築していくためのケアが足りていないからではないのか。日常を壊しても、すぐに再構築できるという安心感が足りないからではないのか。

「今ある日常とは異なる選択肢」は、今よりももっといい方法があるのではないか、と私たちに問いを投げかけてくる。本来、このような「問い」は、今の日常を改め、より良い日常に至るためにきっかけになるものだ。だが、「問い」だけが提示され、その「問い」によって壊れた日常から、新しい日常を再構築するためのケアが同時に提供されない場合、「問い」は、単に今の慣れ親しんだ日常を壊すだけで終わる。現代人は、そのような失敗経験を何度も味わってきたために「問い」自体を拒絶するようになってしまったのではないだろうか。

「選んだあなたが悪い」という声が、旅立つことを不可能にする

選択肢といえば、「自由と自己責任」についての論点もあった。以下のノートは、「選択肢が少ない人には選択肢を作ったら良い」「もし嫌だったら選択しなおせればよい」という考えはもしかしたら「強者の論理」かもしれない、という意見を提示している。

選ぶためには選べるだけの選択肢があること、そしてその選択肢を知っていること。その選択肢を選ぶ基準を自分で持っていて、それを選択しても大丈夫と思えるだけのベースの肯定感や効力感があること、周りにサポーターがいること。選び直しができることと、それを知っていること。そして何より、どれを選んでも、選び直したとしても、住まいがあること、食べていけること。

少年ルッツは、「旅暮らし」のつらさを語られたために、旅商人になることを諦めた。「旅立つ」ことができるためには、”慣れ親しんだやり方”を捨てても自分で生きていけると思えることが必要だったが、少年ルッツはそこまでの自信はなかった。旅商人には見習いなんて制度はなかった。少年ルッツの世界において、「旅立つ」とは何の案内もなく、誰も助けてくれない世界に飛び込むことだった。世の中に選択肢が増えていき、それらすべてに「自己責任」が問われるということは、私たち全員が、毎日のように、少年ルッツのような選択を問われる、ということだ。

馬車の上の仲間 ー動きながら居場所にいることー

ならば、「旅暮らし」を、今ある日常と同じくらい、いや、それよりも居心地よく安心できるものにできないだろうか。

行商人ロレンスを主人公とする小説「狼と香辛料」は、ヒロインの"ホロ"と共に、様々な街を訪ね回る物語だが、「狼と香辛料」の作中では、次の街を目指す馬車の上で、二人が言葉で丁丁八丁のやり合いをするシーンが多数登場する。それは知的な騙し合いのような形式を取っているが、明らかに二人で"イチャイチャ"している。馬車は常に目的地を目指しているが、二人はその間の時間を楽しんでいる。

そういえば、ベンチャー企業も、サロンも、"馬車の上の仲間"のようなものだ。あるVisionの元に、仲間が集い、手を取り合ってVisionを目指す。そこにコミュニティが生まれ、居場所ができていく。

変化の伴走者

我々の会社、cotreeはオンラインでカウンセリングを提供しているが、カウンセリングの役割の一つは、「クライアントの変化に寄り添う」ことだ。欠点や問題と共に居続けるというあり方を肯定できるということも、カウンセリングの役割のひとつだし、「安心して、"変化し続ける"ことを支える」ということも、カウンセリングの役割のひとつだ。(そういえば自己肯定感の話題もあった。)

今の自分から新しい自分へと変わる過程(=旅)の間は、"慣れ親しんできたやり方"が通用しない場面にたくさん遭遇するのだから、当然、不安になる。だが、変化の過程をサポートしてくれる人を傍におくことで、できるだけその過程に「安心」をもたらすことはできる。

居場所を探す旅に果てはないから、旅の過程を居心地よくしよう

生まれた街から出られなかった中世とは異なり、現代において、人間は自分の居場所を選べるようになった。そのために、現代の多くの人は、「市民」と「旅人」の間を往復しつづけている。「完璧な居場所」を目指して、終わらない居場所探しを続けている。

だが、誰にとっても満足できる「完璧な居場所」などない。居場所を、完成された静的な状態として捉えると、「よりより居場所」を求める営みは螺旋運動を描き、果てがなくなり、一人ひとりの人生の長さよりも長くなってしまう。

だからこそ、私たちにできるのは、「より良い居場所」を目指して旅をする過程を、より安心できる、居心地の良いものにしていくことなのではないか。

日常を手放すことを、日常の再構築を支えること。それらの"旅"の過程を共にする仲間となること。それが私たちのミッションなのではないか、と最近は思っている。

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このnoteは、cotreeのadvent note企画、3日目である。

※1 現代社会において、このような「問い」が頻繁に生み出されるようになった理由については、以下の記述が参考になるだろう。

現代社会学における一つの有力な見解に、今日を「近代社会特有のダイナミズム」が徹底的に浸透した社会(後期近代、再帰的近代、ハイ・モダニティ、リキッド・モダニティなどとも呼ばれる)と捉える立場がある。ここでいわれる「近代社会特有のダイナミズム」とは何か。アンソニー・ギデンズによれば、そのダイナミズムの重要な一角を占めるのが、「脱埋め込み」の作用である。近代社会では、それぞれの伝統的共同体内部で保持されてきた慣習や伝統が、近代国家の介入や科学的知識の浸透、ヒト・モノ・情報の流動性上昇等によって相対化され、吟味されるようになる。これが「脱埋め込み」である。つまり「今までのやり方は本当にこれでよいのか? もっといい方法があるのではないか?」というようにである。
牧野智和『自己啓発の時代 「自己」の文化社会学的探究』(勁草書房、2012)

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