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空堀の記憶~日本橋から空堀へ~

(空堀の記憶第15夜 メモ 2022/10/21)
今回の空堀の記憶は、お話しいただいた年齢としては最高齢となる92歳のKさん。いつも鮮明な記憶に助けられている井戸端会理事のOさん(93歳)の2学年下にあたる。

右がKさん、左はH井戸端会会長

生まれは日本橋3丁目

昭和5年4月4日、日本橋3丁目で生まれる。日本橋というと、空堀エリアよりも南西にあたる。空堀へは、中学生の頃に空堀に引っ越してきて今に至る。
通った学校は旧制の頃で、日本橋小学校(6年制・義務教育)ー今宮中学校(5年制)ー大阪高校(大阪大学の前身)へと進学されたそう。

戦争によって空堀で暮らすように

Kさんは、昭和20(1945)年3月13日深夜の大阪空襲で焼き払れたので引っ越しを余儀なくされ、天王寺区空清町へ、さらにその後の6月にも空清町で空襲に見舞われたことで、現在の空堀通りに転居してきた。こう考えると、空襲に見舞われなければずっと日本橋にお住まいになっていたんだろうなと思う。

小学校時代の思い出

小学校といえば運動会や遠足もあったなー
運動会は、つな引き、玉入れ、徒競走など今とあまり変わらない種目があったよ、と。1等から3等まではノートや鉛筆などの賞品があった。
当時、運動会で1等になる種目があったということは、勉強でトップの成績を取るのと同じくらい、自慢にもなることだった。1等を取るのは嬉しいことだった。勉強が苦手な子は運動で挽回できるようになってた。
今は勉強には順位があるけれど、運動で優劣をつけなくなっている。すると、勉強の順位が低い子がコンプレックスになってしまうから、今こそ運動にも順位をつけた方がいいのにね、というご意見もOさんから。

遠足は、低学年の頃に玉造にある陸軍墓地に遠足で歩いていった。日本橋からだと空堀界隈から向かうよりも距離があるので遠足になるようだ。
他には河内長野の観心寺にも行ったなー、と。Oさんからは国分(柏原)にある玉手山遊園地に行った、というお話も。

毎年夏に浜寺公園の水練学校に行っていた。(毎日新聞社主催)
市電で難波〜南海電車で浜寺公園まで行っていた。なんとKさん、水泳で小学校6年間トップだったとか!
遠泳で10km泳ぐこともある。一緒にボートもついて行くので、泳げなくなった子は途中でボートに乗せられる。

井戸端会理事のNさんから泳ぐときに腰に豆をつけますよね、という質問から、それは「はじき豆」というものだそう。長距離を泳ぐときには腰にはじき豆を入れた袋をつけて泳ぎ、途中の補給食にする。もとは乾燥しているのだが、海の中でふやけてちょうどいい塩梅になるとか笑。

Kさんは、本当に泳ぎがお得意でいい思い出がたくさんあったのか、嬉しそうにお話されていた。

ちなみに浜寺公園の水練学校は今もある!
http://www.hamasui.jp

では、日常の遊びは??と、べっタン、ラムネ玉、バイ、で遊んだかなー。

飲み物のラムネの中に入ってるガラス玉だからラムネ玉と呼んでいた。ちなみに、ラムネを飲んで取り出すのではなく、松屋町で売っていたので、それを買ってたよ、ということなので今は「ビー玉」と呼んだりするもののこと。このラムネ玉を使った遊びもいくつかあり、三角出しという陣取りゲームのようなものから高いところから飛ばして当てる遊びなどさまざまです。陣取り系は負けると手持ちのラムネ玉を取られるので、学校からは賭け事になると禁じられてたなー。
ちなみにバイというのは何かというと、「ベーゴマ」と呼ばれるもののこと。ネットで調べてみると関西では“バイゴマ”関東では“ベーゴマ”と言っていた。こちらもぶつけ合いをする遊び。鉄や鉛でできているので、削って重さの調整をしてよく回るようにしたりしたそうだ(素材についても鉄じゃ削れないとか色々意見も出た)。

暮らしの風景の中には、一銭駄菓子屋があった。その頃は素うどん8銭、市電6銭だったころの一銭、となると・・・?
と、子ども時代話題は尽きない。

戦時中の話

当時は「お国のために」という教育もあり、15,6歳で少年兵などの志願兵になる同級生も多くた。もちろん、Kさん自身も志願しようとしたが、一人息子で親が反対するなあと思い志願しなかった。
志願する人たちを大阪駅まで見送りに行った。志願兵の多くは、海外の戦地に行かされていた。外国に向かう輸送船を爆撃されて亡くなった人たちもいると教えてくれた。

日本橋で生まれ育ったKさん、中学2年の昭和20年3月13日に大阪を襲った空襲により、家が焼け出された。(Oさんによると23:30ころから2時間くらいの空襲だったそう)

空襲にあう前から近所に暮らしていた人たちの中には田舎に疎開していって、周辺は空き家や空き店舗だらけだった。残っている人たちの家の敷地内のはそれぞれ防空壕があり、爆撃があったらそこに逃げるよう言われていた。

空襲では、焼夷弾による油と発火で木造建物が焼け、火の海だった。防空壕に逃げた人は熱で焼けて亡くなっていた。
焼夷弾は何本かの塊で落ちてきて、落下中にバラけて落ちる。大きさは(両手で輪っかを作って)このくらいで形は6角形、長さは40センチくらい。その後の6月の空襲の焼夷弾は細く長くなっていた、と、焼夷弾の大きさや形も覚えておられた。

戦時中に中学生だったKさん。
学校では授業が週1回で他の日は学徒動員で工場で働いていた。
ちなみに・・・学年が2つ上のOさんは中学入学してから授業がなくずっと工場勤務だったとのこと。

終戦になった8月15日ー

玉音放送が流れる日は、重要な放送があるから必ずラジオを聴くように言われ、学校帰り途中に聴いたKさん。
いっぽう、Oさんは工場で働いていたら集められて聞いたけど、何か言ってるけど聞き取れなかった。上司から新聞を買ってくるように言われ、はじめて原爆が落とされたこと、終戦したことを知った。

市電の話

戦前戦後の移動手段といえば「市電」のエピソードがわりと出てくる。みんな「すぐ来て」「駅がくまなくあって」「便利だった」という市電。男性の方がお話しされるとよく出てくる市電のエピソード。ここでも市電の話題になった。
市電の車両にはドアがなく、運転手も立って運転する「チンチン電車」。
当時、市電のメインは堺筋だった。堺筋を走る市電はドアもあって大型車両になっていたけど、玉造発の長堀通りは旧型のチンチン電車だった。チンチン電車とは電車の車種のことで、路面電車全般を指す言葉ではない、ということがここで理解する。

市電といえば電飾や飾り付けをしている「花電車」が走る日があった。花電車のことは大阪歴史博物館で写真を見たことがあり、存在は知っていたけれどリアルに見ていた人のお話を初めて聞いて個人的には感動。

理事のYさんから「御堂筋はメインじゃないの??」という質問には「御堂筋は地下鉄が通ってるから市電だと堺筋がメインになる」との答え。

そう、地下鉄の御堂筋線は昭和8年に梅田ー心斎橋間が開通、昭和12年には梅田ー天王寺まだ延長された。なので市電のメインは堺筋だったとのこと。(地下鉄堺筋線が開通するのはずっと先の大阪万博の頃あたり)

子ども時代や戦時中の食事事情

楽しみだった食べものや日常食べていたおかずなどの話題。

Kさんは迷わずバナナ!病気になった時にしか食べられなかった。バナナといえば値段が変わっていない果物の代表。(お金の価値が変わっても値段が変わっていないという)
おかずといえば、菜葉の炊いたんが多かったように思う、とOさん。

輸送にも限りがあったから、とはいえ、戦前は市場にはまだ物が入ってきていたから割と物はあった。勝山通や今里筋にいけば田畑があった。
卵は、ニワトリを飼っている家でないとしょっちゅうは食べられない。卵はおがくずで割れないようにして、箱に入って岡山から届いてた。

肉も滅多になかった。大阪は肉といえば牛肉。
カレーは肉屋が作っていた。道頓堀にイノシシ肉屋があった覚えがある。
鯨肉が安かったからよく食べた。臭かった!

戦時中は“食うか食わずか”
お店にはモノがない、配給もなくなる、その辺の雑草までも食べた。

空堀商店街や界隈の風景

商店街には小売店がたくさんあって、大勢の人で賑わっていた。飲食店は今ほどなく、おかずを売るお店がたくさんあった、買ったものは舟(たこ焼き皿のようなもの)に入れてくれる。袋はもらえないけど、みんな風呂敷包みで買い物に出かけてた。

Kさんが、買い物にはかならず世間話がつきもの。今は一言もしゃべらなくても買い物ができてしまうことを少し嘆かれていた。

商店街のそばには銀杏の木があり、銀杏湯というお風呂屋さんがあった。
かみなり亭など飲食店が並ぶ坂道、金比羅坂にも銀杏の木があった(今のかみなり亭の隣あたり)。

桃園幼稚園のそばにも大きな銀杏の木があるね、という銀杏の木が多い不思議なまち。

空堀商店街の起源

参加者である学者さんから、空堀商店街の始まりや開発について調べてみたが、資料がみつからない。ちなみに天神橋筋商店街などは起源がはっきりしていて資料もある、というご意見が。

武家屋敷と寺町の境目で、大坂城の堀の外だったから町人が入りやすかったのでは?

秀吉の時代は南惣構堀だったが、江戸時代は瓦の土取り場になっていて、熊野街道が安堂寺通りで東に曲がるようになったのもそのせい。

路地が多く人口密度が高く、モノが売れそうだから自然発生的に商店が集まってきたのか?

明治10年の土木工事で今の地形になった。それまでは瓦土取っていたから、それまでらかなり起伏に富んでいたはず。当時の工事で道路がレンガ敷きになったのが、みんなの自慢だった。Oさんが硬いレンガだったからよくすべった。車が電信柱にぶつかったり、馬が滑って転んだり、割とあった。
などなど歴史好きな参加者の方からの仮説がどんどんあふれてきていた。

さいごに

この日は初参加の方も多く、予定時間を少しすぎて閉会となりました。
今回は、Kさんの子ども時代をすごされた日本橋界隈の話もあり、松屋町から空堀界隈をすごされたOさんのお話と合わさって、いつもより少し立体的な大阪の話になっていたなと感じた。

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